また、また猛威、暑くなる。
人を憎むはわれならむかな些細なることに反応したり
これの世に戦乱なくなることぞなき人を憎むもやむことなきか
夜の暗きに唐突にミサイル、無人飛行機都心を襲ふ
『孟子』梁惠王章句上7-13 五の宅、之をうるに桑を以てせば、五十の者以て帛を衣る可し。の、其の時を失ふ無くんば、七十の者以て肉を食ふ可し。
百畝の田、其の時を奪ふ勿くんば、八口の家、以て飢うる無かる可し。の教へを謹み、之にぬるに孝悌の義を以てせば、の者、道路にせず。老者帛を衣、肉を食ひ、飢ゑずえず、然り而して王たらざる者は、未だこれ有らざるなり」
人々がひもじくもなく寒いこともなければ王たらざるもの非ざるものなり
前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 尾山篤二郎
うらはらのそぐはぬ睡り昼をいねてはや時雨降る季節かと思ふ (歌集・)
「うらはらの」だから「反対の」である。「そぐはぬ睡り」だから「ふさわしくない睡り」であr。そこで上句は眠くもないのに昼間を寝ているということである。やむなく仕方なしに寝ているのだから、なかなか眠れない。うとうとしたかと思うとすぐに目が覚める。覚めたかと思ったらまた眠っている。これを夢うつつといえば風情があり、浅き眠りといえば詩的であるが「うらはらのそぐはぬ」思いで寝ていたのでは、たのしくもなければ面白くもないにきまっている。やけを起こして寝てしまったのだ。不貞腐れているのだから、いちばんぐあい悪い思いをするのは垂でもない自分自身だ。あれをこれをといろいろに思い悩んでいる。おりしもふと外のけはいを感じた。時雨が降り出したようすである。さむざむと降り過ぎる音を聞きながら、ひときわ救わるる思いをした。同時に秋はもはやこのように老けていたのか感慨を覚えたのである。すると急に自分のしざまがかえりみられた。こんなことをしていてよいのかと恥ずかしくなったのだ。その心が「はや時雨降る季節かと思ふ」の下句にさりげなくあらわれている。たえ難い思いをそれといわずにたんたんたる調べに託した哀感が読むものの心に沁み入るのである。
この歌は「秋雨」十五首中の一首(略)長男の直樹を死なせ、その妻子をも養わねばならず、困窮している時の歌だ。その上、さらに複雑な家庭的事情もあって、ついこのように正直に自分の弱みをさらけ出してしまったのだが、またすぐに取りなおして次のように心を閑雅に遊ばせている。
つくばひに滴る水の小竹見きうつつと夢のはざかひにして
その心境がしのばれ、風流を愛した彼の面影がしのばれる。
象あるもの消滅し父と子の火宅の譬喩あきらかに現ず
油汗かきし今際ぞけしきたつ死なせしものがさそはんとする
綿に染む死臭のにほひむかむかと一日われに絡らむとす
歌のよしあしはともかく、正視するに忍びない。子を悲しむ心が怒りにまで昂じている。しかしまた次のような天界自然の景に心をやってみずからを慰めている。
屋根越えて眉間を照らす月を見き十八日の丑三つの月
さしのぼる夜なかの月の脇仏金星ちさく暗くまばたく
眉間を照らす丑三つの月とか、金星を月の脇仏などというところが篤二郎である。こういう悲しみの歌もどことなしに技を凝っている。