今日も、まったく暑いのだ。
『血団事件』『荷風のいた街』『精霊の王』読まねばならぬ文庫三冊
本と埃の山の中から救ひだす『世界の果てまで連れてって!…』
読まねばならぬ古井由吉『この道』を埃払ひつつ拾ひあげつ
『孟子』梁惠王章句下8-4 今、王此に鼓楽をせんに、百姓王のの声、の音を聞き、皆欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王無きにからんか。何を以て能くせんや』と。今、王此にせんに、王の車馬の音を聞き、の美を見、欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王疾病無きに庶幾からんか。何を以て能く田猟せんや」と。此れ他無し、民と楽しみ同じうすればなり。今、王百姓と楽しみ同じうせば、則ち王たらん』と。
王常に百姓をおもひ百姓と楽しめば則ち王たらむとす
前川佐美雄『秀歌十二月』十一月』 岡麓
みちに見し小狗おもほゆ育つもの楽しくをりとこよひ安らぐ (歌集・冬空)
小狗は小犬だが、子犬のことである。生れてまもない子犬だったのだろう。それが路上に遊んでいた。通りがかると足もとによって来てまつわりつくようにした。いや子供たちにもてあそばれて、くんくん咽喉を鳴らしていた。その可愛い子犬を夜、床に就こうとしてふと思い出したのだ。「育つも楽しくをり」の三、四句がそれである。子犬のさまをいうと同時に自分の感慨を叙べているのだ。あの子犬もだんだん大きくなるだろう。遊びたわむれながらおいおい成長して行くにちがいない。という感慨である。それで何となく心の安らぐ思いをした。それが「こよひ」である。では「こよひ」ならざるいつもの晩はどうなのか。何か気がかりなことでもあったのだろうか。
子孫らのわれをたよりに生きをりと思へば老のいのち嘆かゆ
夜のまにひび割れたりし卵二つふたりの孫にゆでてあたへよ
というような歌がこの前後にあるから、あるいはそうした孫たちの身を案じていたのかもわからない。(略)子犬だってあのようにして育ってゆくのである。人の子だって変わりがないのではないか、そう心配するほどのこともなさそうだ、という思いが感じられる。けれどもそれを口にしてはいけないのだ。ことばに出していうと歌を傷つける。感じとっておくだけでよいのである。
これは長野県の山村で作られた歌である。(略)北安曇郡会染村での疎開生活中の歌である。昭和二十年四月某日、かねてより神経痛で足腰の立たなかった麓は、瘭疽をわずらっていた老妻とともに、人に助けられ人に背負われて戦火の東京を脱出した。しらない土地の馴れない生活がはじまったわけだが、すでにこのころは一人の孫を戦死させており、また集まって来た幾人かの家族をかかえて、しかもみずからは病身、おおかた寝たり起きたりの毎日だったのだから、さだめし不如意な生活だったろうと思われる。そのようなある日、気分がよいので外出した。二人の小さい孫をつれていたのかもしれない。その途上、無心に遊びたわむれている子犬を見かけた。それがこのような形の歌になった。滋味あふるる佳作である。