今日も暑いらしい。う~ん
毎日々々かんかん照りの世の中なりわがからだ溶けてなにものならん
かんかん照りとふ語を思ひだすこの暑さこれくらいではこの暑さ謂へず
暑さ、あつさ この汗だくのシャツを脱ぎ洗濯機のなかシャツ積もりゆく
『孟子』梁恵王章句下9 斉の宣王問うて曰く、「文王のは、方七十里と。有りや」と。孟子対へて曰く、「伝に於て之有り」と。曰く、「是の若く其れ大なるか」と。
曰く、「民猶ほ以て小なりと為すなり」と。曰く、「寡人の囿は方四十里。民猶ほ以て大なりと為すは、何ぞや」と。
斉の宣王が問ふわが囿は方四十里さするにかくも大に過ぐると
前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 岡麓
雪やみて降かはりたる黄昏の雨に小鳥のよびあふ低し (同)
「黄昏」は元来の意とは別に今日の日の暮れ方の意に用いられている。降りしきっていた雪が雨になったうすら明かりの日暮れ方である。ねぐらについた小鳥がこのひと時をとしきりに鳴きあっている声が低く聞こえる、というおもむきの歌である。(略)小鳥といったのは用意あってのことだ。読者の自由なる想像にまかせている。この結句の「よびあふ低し」がよい。その声が低く小さく聞こえるからだが、よく情景をとらえているというだけではなく、暖かな人間の愛情がこもっている。しかし一首全体から受ける感じはやはりさびしそうだ。同じような歌がある。
雨にならぬ曇のままに夕づくや鳥一時にはたとしづまる
小鳥らはゆふべになればあつまりより一日の無事を告げあふならむ
あとの歌など若い人にはおもしろくないだろう。(略)あまりにも地味だったからだ。(略)しかしよく見ると秀れている。
はなやかだった幾人かの歌人にくらべて遜色を見ない。むしろ立ちまさっている。(略)昭和二十六年七十五歳で東京に帰り住むことなく信州で没している。