今日も猛暑だ。
ほぼ一月前のこと その一
キッチンの総入替に時を合せホテルへ逃げ出すわれならなくに
外界は酷暑なり。冷房の度合高めてこの部屋出ず
朝がらすここにも鳴くや。目覚めたるホテルのベッドの頭の上に
『孟子』梁恵王章句下9-2 曰く、「文王の囿は、方七十里、の者も往き、の者も往く。民と之を同じうす。民以て小なりと為すも、亦宜ならずや。臣始めて境に至るや、国の大禁を問ひ、然る後敢て入れり。臣聞く、『郊関の内、囿方四十里なる有り。其のを殺す者は、人を殺すの罪の如し』と。則ち是れ方四十里、阱を国中に為るなり。民以て大なりと為すも、亦宜ならずや」と。
方四十里も大なりとそこに麋鹿を殺す者人を殺すと同じことなり
前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 大弐三位
有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする (後拾遺集)
「かれがれなる男のおぼつかなくなどいひたりけるによめる」の題詞がある。「かれがれ」は、はなればなれ、「おぼつかなく」は、はっきりしない、たよりないというほどの意。しばらく逢わないで疎遠になっている男から、あなたの心が不安だ、たよりなく思われるといって来たのに対した歌である。
有馬山は摂津の有馬郡、猪名野はその山の付近で、(略)歌枕として知られている。
初句から三句までが「いでそよ人を」の「そよ」を引き出すための序詞、笹原に風が吹くとそよそよと音を立てるからだ。「いで」は「さあ」と相手を誘い出し、また呼びかける場合と、「いやどうして」と相手にはんぱつする場合などに用いる感動詞だが、ここでは後者の意。「そよ」はそれよ、それですよの意。「忘れやはする」の「やは」は反語で、忘れない、忘れなんかするするものかの意である。それでこの歌は、「いやどうしてあなたを忘れなどするものですか」というだけのことである。ただそれだけの下二句で足りるところを、有馬山をいい、猪名の笹原をいい、吹く風をといって上三句を費やしている。(略)そんなことはかかわりなく言葉どおりに、調べにしたがって読みさえすればよいのである。下手な注釈書なんかかえって邪魔だ。くりかえし読んでおれば自然に妙味がわかって来る。すなわち上三句は序詞であるが、なお有馬山のふもとの猪名の笹原を吹きわたる秋風のさびしさを表現しながら、同時に失恋に近い心のわびしさを象徴してもいる。この上の句を受ける下句が大事であるが、四句「いでそよ人よ」の鮮かな変転ぶりに感嘆する。言葉の駆使斡旋が自在である。微妙な心情をその調べに乗せて結句に移る。それが「忘れやはする」の反語に納められて、心もとないなどとはとんでもない、それはあなたですよ。私はあなたをけっして忘れなどするものですか、とやりかえしたのである。この場合「君を」といわずに「人を」といった。当代のならわしでもあったが、「君を」では歌がこわれるだろう。
この歌は芥川竜之介が好きであった。彼の文学を思うとそれがわかるようだ。百人一首に入っているからだれでも知っている歌だ。作者は紫式部の女である。