今日も猛烈に暑い。ああ、
その四
目の前の中華料理の店に入り青椒肉絲・酢豚の定食
二日目は妻が買ひ来し黒ビール、寿司盛合せ山葵を付けて
キッチンの新調の音を考へて三日ホテルに暮すわれなり
『孟子』梁恵王章句下10-3 書に曰く、『天、下民を降し、之が君を作り、之が師を作る。惟れ曰く、其れ上帝を助けよと。之を四方にす。罪有るも罪無きも、我在り。天下ぞ敢ての志をす有らんや。』と。一人、天下にするは武王、之を恥ず。此れ武王の勇なり。而して武王も亦一たび怒りて、天下の民を安んぜり。今、王も亦一たび怒りて、天下の民を安んぜば、民王の勇を好まざるを恐るるなり」と。
宣王のひとたび民を安んずるかくあれば民 王の勇を好まぬを恐る
前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 沙弥満誓
世間を何に譬へむ朝びらき傍ぎ去にし船の跡なき如し (同巻三・三五一)
「朝びらき」は碇泊していた船が夜が明けていっせいに港を漕ぎ出すことをいう。
その語を借りて世間のことにたとえたのである。一首の意は「この世の中を何にたとえようか、それは朝、港から漕ぎ出して行ってしまった船の、跡に何も残さないと同じようなものだ」というので、これは明らかに仏教的無常感が歌われている。万葉集ではわずかにしか見られぬ仏教思想をいった歌として注目されるが、当時としては新しかったのだろう。新しくても思想的な歌は、よほど力量あるものでもなかなか成功しがたいものだ。たいていもものものは思想だけが浮き立って、形だけのものになりがちだが、この歌はそうではない。やはり「朝びらき」の語があるためだろう。それはその情景をよく知っているからで、それだから「傍ぎ去にし船の跡なき如し」といっても、頭の中で想像しただけではない、具体的なものを人に感じさせるところが出てきたのである。この歌はむろんそうだが、前の綿の歌にしても、万葉集中では、そう目立つわけではないが、やはりこれまでにない新しさが見られる。しかしこれが古今集後の拾遺集に入れられると「朝ぼらけ」以下の語句が次のように改められて、いちおう美しいけれど、弱く力のないものになっている。
世のなかを何にたとへむ朝びらけこぎゆく船のあとの白波