今日も特別に暑い。暑い。
もつとも身近にある死の世界日々干乾びてみみず死す
みみずの屍踏まぬやうにと歩くわれ右によりまた左に傾く
この世からあの世へ渡るところには蚯蚓の死骸あまた干乾ぶ
『孟子』梁恵王章句上6 孟子 梁の襄王にゆ。出でて人にげて曰く、「之に望むに人君に似ず。之に就くに畏るる所を見ず。卒然として問ふて曰く、『天下にか定まらん』と。吾対へて曰く、『一に定まらん』と。『か能く之を一にせん』と。対へて曰く、『人を殺すを嗜まざる者、能く之を一にせん』と。『孰か能く之に与せん』と。
梁の襄王が孟子に聞けり。退出して後にいふ君子としてはありがたからず
前川佐美雄『秀歌十二月』十月 大伯皇女
わが背子を大和へ遣ると小夜深けてあかとき露にわが立ち濡れし (万葉集巻二・一〇五)
「大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の御歌二首」と詞書ある一首目の歌。大津皇子は天武天皇の第三皇子、母は天智天皇の皇女の大田皇女(持統天皇の姉)。幼少より好学博覧、才藻を謳われる。雄弁で度量が大きく、体軀堂々として多力、武技をよくして抜群の大器であった。天智天皇にとくに愛され、天武十二年には朝政をきくほどだったが、新羅の僧行心が骨相を見て、臣下にとどまっていたのでは身辺が危いといったので反逆を企てる。持統天皇の朱鳥元年十月二日発覚、翌日死を賜った。天武天皇崩御後わずか二十日余であった。この反逆事件は皇子をおとしいれるために仕組まれた陰謀であったともいわれる。大伯皇女は大津の同母姉。(略)十三歳で伊勢の斎宮となったが、皇子より二つ年上、この時は二十六歳である。
この詞書の「大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下がり」がやはりただ事でない。天武天皇崩御のあと、皇位をねらった皇子は伊勢神宮に神意をただす必要があったからだろう。仁徳天皇の兄妹の隼別と女鳥王も場合も同じであった。(略)姉の大伯皇女はそれをうちあけられて、さぞかし驚いたことと思われる。」これはその皇子の大和へ帰るのを送る歌である。(略)わが弟の君を大和へ帰らせようとして夜のふけるのを見送っていて暁の露に濡れた、というのである。「あかとき」は、(略)いずれにしても夜ふけから夜明けへかけて、心配そうに見送っていたのであろう。(略)早く帰るようにと心をつかっているおもむきが感じられる。けれどもこの歌は、反逆事件など考えずに読むと、きょうだい愛というか、それ以上に恋愛情調に似たようなものが感じられる。それがこの歌の心である。