9月17日(水)

今日も暑い。

  トーマス、バージ―、ゴードンの名を呼ぶ孫の声の大きさ

  トーマスのテレビ番組の始まれば画面のまん前孫は動かず

  むちむちのからだを抱けば老いの軀も少しは若くなりたるものか

『孟子』梁恵王章句下20 の文公問うて曰く、「滕は小国なり。斉・楚に間す。斉にへんか、楚に事へんか」と。孟子対へて曰く、「是のは吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已む無くんば則ち一有り。斯の池をち、斯の城を築き、民と与に之を守り、死をすも民去らざるは、則ち是れ為す可きなり」と。

文王の問ひ難しき城の掘りを深くして城壁を高く民と共に戦へ (『装飾樂句』)

林和清『塚本邦雄の百首』

  賣るべきイエスわれにあらねば狐色の毛布にふかく没して眠る

塚本はいち早く『水葬物語』の世界に別れを告げ、次の次元に進もうとしていた。無国籍的物語性から、日本の戦後世界に生きる「われ」の立場を確保し、文語文体をもって短歌の文脈に切り込もうとしたのだ。

聖書を文学として愛読していた塚本には、おびただしい数のキリスト教関連の歌がある。それは信仰ではなく、この歌のように反信仰的な思想を帯びている。

また「狐色の毛布」には、色彩喩というべき試みがある。この後にも「艾色の墓群」「牛肉色の煙突」などの多彩な色彩喩が、塚本の象徴世界を彩ってゆく。

暗渠の花揉まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ (『装飾樂句』)

私の考える塚本邦雄の最高傑作の一つ。二〇二二年二月に開始されたロシアによるウクライナ侵攻の時、真っ先に脳裏に浮かんだのもこの歌だった。この歌が作られて七〇年経て、未だにモスクワは冷え冷えと理解を拒む存在なのだ。「識らざれば」は見事な要。なまじな見解よりも多面的な暗示力を発揮している。「鮮し」は皮肉を超えて、不安感を醸し出す。

暗渠にもまれる花を、散った桜とする解釈もあるが、私は直観的に、捨てられた花束がバラバラになり見えない渦に蹂躙されているイメージが浮かんだ。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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