朝涼しいのだが、31℃になるらしい。
自動車の音もいつになくしづかなり猛暑に街に出るものなし
どことなくしづかなこの世ガラス越にさがみの野をば九階に見つ
世の中はこの猛暑にてもて余す日々のなりはひもしづかなりけり
『孟子』梁恵王章句下23-2 入りて見えて曰く、「君れぞを見ざるや」と。曰く、「或ひと寡人に告げて曰く、『孟子の後喪は前喪に踰えたり』と。是を以て往きて見ざるなり」と。曰く、「何ぞや、君の所謂踰ゆとは。前には士を以てし、後には大夫を以てし、前には三鼎を以てし、後には五鼎を以てしたるか」と。曰く、「否。の美を謂ふなり」と。曰く、「所謂踰ゆるには非ざるなり。貧富同じからざればなり」と。
なにゆゑに孟軻に会はざる。楽正子がいふ前も後も変わらざりけり
林和清『塚本邦雄の百首』
はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を賣りにくる (『日本人靈歌』)
『日本人靈歌』には、当時の市井の情景が執拗なまでに描かれていて貴重である。登場する事物の中で、蠅捕リボンや芥子泥湿布、石鹼を積む馬車などはすでに失せた物。市電や銭湯や平和祭などはあるにしても、モチーフとして在り方がちがっているものだろう。
セールスに来る保険屋も今はほぼ見なくなった。額のてかりは見事な人物描写、遠き死を売るとは生命保険の本質をシニカルに捉えている。初夏の夕べの空気や町のにおいまで感じさせる。保険嫌いだった澁澤龍彦がいち早くこの歌に賛辞を寄せているのも面白い。
昭和三十二年八月 螻蛄のごと奔れり午睡の町をジープが (『日本人霊歌』)
この歌集の前に大きな論争があった。詩人の大岡信との「新しいリアリティ」をめぐる応酬。それは第二芸術論への回答という位相を帯びている。すでに寺山修司、岡井隆との交流も始まり、前衛短歌が大きな文学潮流となる予感に満ちていた時代の産物なのだ。
戦後社会の欺瞞や閉塞感をドキュメンタリータッチで描き出している歌集の中でもこの歌は異色だ。何があったのか。米軍ジープか。すでに占領から脱して六年目。もしかしたらこの月に起こった米軍機による殺傷事件に関連するのか。螻蛄がなんと軽いことか。