9月26日(金)

朝は、なんとなく涼しいが、今、10時半30℃だ。

  電気釜に飯焚き、蓋を開ける時しあわせの香われひとりじめ

  電気釜を開けば信濃の米の香のこれ旨いぞとしゃべるが如く

  炊き立ての飯を喰らへば旨しうまし幾杯も喰らう餓鬼にはあらず

『孟子』公孫丑章句24-4 斉人言へる有り。曰く、『有りと雖も、勢ひに乗ずるに如かず。有りと雖も、時を待つに如かず』と。今の時は則ち然し易きなり。夏后・殷・周の盛んなるも、地未だ千里に過ぐる者有らざるなり。而して斉其の地を有せり。鶏鳴相聞えて、四境に達す。而して斉其の民を有せり。地改めかず。民改め聚めず。仁政を行うて王たらば、之を能くむる莫きなり。

  仁政を行なひ王者となれば誰も妨害することなし

林和清『塚本邦雄の百首』
固きカラーに擦れし咽喉輪のくれなゐのさらばとは永久に男のことば 『感幻樂』(1969)

第五歌集『綠色研究』によって象徴詩として短歌のピークを極めた塚本邦雄は、すでに次の矢をつがえていた。それは中世歌謡に取材した「花曜」の一連。これにより塚本は、西洋美学から日本の古典世界へと領土をひろげ、その歌世界ははるかな地平を獲得した。

ただそれだけでなく、この一首を巻頭に置く「聖・銃器店」の章段では、闘牛士やラガーら男たちの愛とエロスが描かれている。当時は会社員でもシャツに付け襟をしていたので、窮屈で痛かったのだろう。痛みを分かち合う男の別れと下の句のドラマティックな音韻!

おおはるかなる沖には雪のふるものを胡椒こぼれしあかときの皿 『感幻樂』

歌集の三番目の章段で、「花曜」~隆達節によせる初七調組歌風カンタータ~がはじまる。跋に「梁塵秘抄、閑吟集隆達小唄、わけても田植草紙、その中・近世歌謡群の縁野を彷徨した、ながい一時期」とある一連である。この歌の初七音は、和泉流「石神」の狂言小唄からそのまま取られているが、景は全く違う。

夜明けの海に雪の降る遠景と皿に胡椒のこぼれた近景。二つをつなぐのは暁の冷たい空気、という近代絵画のような手法である。中世歌謡の語法や韻律を基にして、塚本は新しい歌世界を生み出したのである。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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