朝、歩きに出ると雨が、たいして歩けなかった。
ぐしやぐしやのわが魂を苛むか老い病むわれの怯へたりけり
朝からポツンポツンとふる雨はやがて台風の降雨とならむ
伊豆半島のあたりを線上降水帯災害招くほどに強く
『孟子』公孫丑章句25 公孫丑問うて曰く、「夫子 斉の卿相に加はり、道を行ふことを得ば、此に由りて覇王たらしむと雖も異まず。此の如くんば則ち心を動かすや否や」と。孟子曰く、「否。我四十にして心を動かさず」と。曰く、「是の若くんば則ち夫子 に過ぐること遠し」と。曰く、「是れ難からず。告子は我に先だちて心を動かさず」と。
孟子がいふ是れ難からず。告子は我に先だつことなし
林和清『塚本邦雄の百首』
鑚・蠍・旱・雁・掏摸・檻・囮・森・橇・二人・鎖・百合・塵 『感幻樂』
塚本邦雄は『水葬物語』の時から言語遊戯に執して来た。それは遊戯を愚劣なものとしてひたすら謹厳実直な道を歩んできた近代短歌の流れに対する反措定でもあったのだ。その最大のものは限定本『花にめざめよ』(一九七九)で、一六八首すべてが二六字で統一され冠歌になっているというすさまじさ。それが全くの無償性により成り立ち、純粋遊戯であるというものである。
この歌も言語遊戯だが、通常の歌群の中にさりげなくある。「り」の脚韻名詞をたどると、さまざまなドラマが展開し、最後は弔花が捧げられ塵と化す。
いたみもて世界の外に佇つわれと紅き逆睫毛の曼殊沙華 『感幻樂』
『感幻樂』のもう一つの名歌。上の句の自己と下の句の花が同質の存在感を持つことを「と」という助詞がつないで示している。曼殊沙華が田の周縁に咲くように、自分自身も常識に守られた世界の外側に立つしかない。曼殊沙華は美しいが毛羽立ち、見るたびに逆睫毛のように目が痛む。しかしを見てしまうのは、美は本質的に温く癒してくれるものではなく、目に激しい痛みを与えるものだという確信からであろう。
若き日に「この花がめらめら炎え上がると、背中をどやされた様な烈しいショックをうけ」と書いている。