今日も晴れ、春らしい日である。そして父が死んだ日である。あれから三十六年。生きていれば九十七になる。
朱川湊人の小説をはじめて読んだ。『花まんま』、これが面白かった。大阪のあまり上等ではない町内の怪異譚。短編六作である。意表をつかれたような、どこか哀しく、寂しい、しかしユーモアのある作品たちであった。朱川は1963年大阪生まれ、物語世界も、十歳前後。年代がそう遠くないので時代性もおおかたわかる。「トカピの夜」の朝鮮、「妖精生物」の摩訶不思議の住民たち、「花まんま」の生れ変り、「送りん婆」における人生の終い、「凍蝶」の生と生物のかかわり、いやいや普通のようで普通ではない。平明だけど深い。驚異的な凄さがある。
朱川湊人の「トピカの夜」の妖しさは死せるチャンホと遊ぶ少年
「トピカの夜」を読みて涙するわれがゐる老いぼれたれど心ふるふ
つつじの花に朱の色とうす桃色の花が咲くわれの眼下に垣なすところ
西洋たんぽぽの黄の色のあざやげば西洋たんぽぽわが好みなり
常葉樹の楠の木に新旧の葉のせめぎあふ旧きはおちて代替はりする
『論語』微子六 長沮・桀溺、耦して耕す。孔子これを過ぐ。子路をして津を問はしむ。長沮が曰く、「夫の輿を執る者は誰と為す。」子路曰く、「孔丘と為す。」曰く、「是魯の孔丘か。」対へて曰く、「是なり。」曰く、「是ならば津を知らん。」桀溺に問ふ。桀溺が曰く、「子は誰とか為す。」曰く、「仲由と為す。」曰く、「是れ魯の孔丘の徒か。」対へて曰く、「然り。」曰く、「滔滔たる者、天下皆是れなり。而して誰か以てこれを易へん。且つ而の人を辟くるの士に従はんよりは、豈に世を辟くるの士に従うに若かんや。耰して輟まず。」子路以て告す。夫子憮然として曰く、「鳥獣は与に群を同じくすべからず。吾斯の人の徒と与にするに非ずして誰をか与にかせん。丘は与に易へざるなり。」
孔子の弟子でむだな骨折りをするよりは、われわれ隠者の仲間入りをせよと子路にいっているが、こうしはがっかりして「私は人間の仲間といっしょに居るのでなくて、だれといっしょに居ろうぞ。」といって、長沮・桀溺の言を採用しなかった。
長沮・桀溺が耕すところ孔子が通る結果隠者の仲間にはならず
前川佐美雄『秀歌十二月』一月 山上憶良
ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに (万葉集巻五・八〇一)
「惑へる情を返さしむる歌の」のこれは反歌であるが、長歌には序がついている。「ある人、父母を敬ふことを知れれども侍養を忘れ、妻子を顧みずして、脱屣よりも軽れり」云々と漢文口調の名文がつづき、そうして「父母を、見れば、尊し、妻子を見れば、めぐし愛し、世の中は」と長歌がはじまる。ともにいずれも憶良の思想がよく出ている。それは儒教の道徳観で、後には実生活の常識ともなるけれど、この時代では儒教はなおもっとも進歩的な思想として、(略)尊敬せられもすれば一面けむたがれもしたことだろう。うるさいおやじであったろうが、親切であった。おせっかいだったろうが、ものわかりがよかった。
この「為まさに」がよい。心憎いほどよい。命令しているのでなく「しなさいや」とやさしくさとしているのである。憶良の歌はときどき反発を感じるけれど、こういうふうだとなかなかよい。