今日も晴れ、25度くらいになるらしい。
ちょっと前のことだが、
つつじの花二輪がひらくマンションの近くの垣に隠れるやうに
躑躅に花の着けはじめ近傍の公園に赤き花咲く
とびとびにつつじ花がひらきゆくそろそろ季節の変り目ならむ
『論語』子張一八 曾子曰く、「吾れ諸れを夫子に聞けり、孟荘子(魯の大夫)の孝や、其の他は能くすべきなり。其の父の臣と父の政とを改めざるは、是れ能くし難きなり。」
猛荘子の孝行は、ほかのことはまだまねもできるが、父親の臣下と父親の治め方とを改めないというのは、これはまねのしにくいことだ。
孔子が珍しく猛荘子を褒めているということか。
猛荘子を褒めたるか孔子よ父に孝、父の臣と政あらためざるは
前川佐美雄『秀歌十二月』三月 藤原定家
大空は梅のにほひに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月 (新古今集)
この歌の本歌といわれる大江千里の、
照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき (新古今集)
がうまいぐあいに説明してくれる。これは新古今集にでているが、千里は新古今代の人で、白楽天の嘉稜春夜の詩「明ならず暗ならず朧朧の月」の心を詠んだものだから、定家のこの歌も千里を通じて白楽天へまでたどれるわけだ。(略)しかし千里はまずい結論をつけて、古今集ふうの悪いくせを出したのに反し、それを踏まえたとはいえ、本歌とは似ても似つかぬ、身も心もまったく異なる、このような秀歌をなしえたのはさすが定家だ。春の朧月夜の情景を詠んでこれほど完璧、これほど高尚の作は、あとにも先にもないといいたい。
(略)結句は「春の夜の月」と体言止めで余情を残した。そこで思い出されるのは蘇軾の詩「春夜」だ。
春宵一刻直千金 花に清香有り月に陰有り 歌管台声細細 鞦韆 院落夜沈沈
吟唱していると情景が目に浮かぶ。美しい春宵の情景が手に取るように見えてくる。けれど定家の歌はさだかにはなにも歌われていない。それを象徴して情趣だけが歌われている。しかも空、梅、におい、霞、春、月など、なんの奇も変哲もないありふれたものの組み合わせだけれど、いずれももっとも美しいものばかりだ。(略)最高級の材料のみをもって処理した、これはまこと にぜいたくきわまる歌だ。