今日も曇りつづきらしい。
北方謙三『寂滅の剣』、日向景一郎シリーズ5。最終巻を読んだ。五冊、読みでがあった。最終は半ばですこし緩みがあるように感じたが、最終決戦、また景一郎と森之助の対決場面は圧巻、圧倒された。結局、景一郎が森之助を斬ることになるのだが、これも予想通りであった。景一郎は、たたただ虚しく、旅に立つ。
睾丸の役目は疾うに終へたるか役にたたざるふぐりぶら提げ
男の性のほとんど役に立たざるに欲望のみはいまだ失せず
男女差のなき世を願ふわれならむしかれど残る好みや欲は
ひよどりが鳴かねばすずめの二羽がくるけふの中庭は親しみがある
『論語』堯曰五 孔子曰く、「命を知らざれば、以て君子たること無きなり。礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。」
命・礼・言これを知らずば君子ならず立つこともなし人も知らざる
これで、ようやっと『論語』もお終いだ。『論語』を最初から最後まで読んだのは、私にとってはじめてだが、身になったかといわれたら、ふ~む、という疑問がある。多くの章段の意義も忘れているし、覚えていることも説明できるわけではない。しかし、読み切ったことはたしかだ。その足跡はここに刻まれている。読み切って、かかった時間(一日一章段)も膨大だが、その間の私をたいしたものだと思うのである。自分で褒めてやりたいのだ。
明日からは四書のうちの『大学』をまた一章づつ読むことにしよう。ありがとう『論語』と言っておきたい。
前川佐美雄『秀歌十二月』四月 志貴皇子
石激る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも (万葉集巻八・一四一八)
巻八の巻頭歌、志貴皇子の「懽の御歌」である。岩の上を走り流れ落ちる滝のほとりのワラビがもう芽を出す春になったよ、とよろこんでいる。(略)「岩ばしる」の方が音調がよい。「垂水」もほそぼそと落ちる水ではなく、勢いよく流れ落ちる滝であった方が、よろこびをいうのに似つかわしい。「さ蕨」は早蕨ではなく、「さ」は接頭語。「石激る」の初句から「垂水の上のさ蕨の」と「の」の助辞をかさねて終りまで休止しない。とくに四句を一音多い字あまりにして調べを高め、ゆたかに大きく「なりにけるかも」の結句を得て、まれにみる丈高い歌になった。
(略)志貴皇子の宮は奈良の春日にあった。そのあとが白毫寺であるといわれる。だからこの「石激る垂水」は春日山から流れでる能登川、率川、宜寸川のいずれかの滝と考えられる。(略)志貴皇子の歌は全部で六首だが、いずれもすぐれており、この歌は万葉集中でも傑作の一つに数えられる。