昨夜雨だったらしいが、晴れている。
あじさゐの藍色の花咲きにけりひつそり三輪目に著くして
地獄の底を這ひつくばるがわれが身の果つるところやこの場所にして
覗き見る火炎地獄の中にゐる鬼に甚振られわれやありけむ
いつのまにか熱湯地獄を這ひずりニヤリと笑ふ衰亡のわれ
『大学』第一章 一 大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止まるに在り。
止まるを知りて后定まる有り、定まりて后能く静かにして后能く安く、安くして后能く慮り、慮りて后能く得。物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。
『論語』にくらべれば、言わんとするところが明瞭であるように思うが、どうだろう。
大学の道とは明徳を明らかにし至善にとどまることに在りにき
前川佐美雄『秀歌十二月』四月 厚見王
蝦鳴く神奈備河ににかげ見えて今か咲くらむ山吹の花 (万葉集巻八・一四三五)
「蝦」は「蛙」だが、この歌の場合は「河鹿」である。あの美しい声で鳴くカジカである。ヤマブキの咲くころはカジカはまだ鳴かないけれど、河とカジカはつきものである。だから神奈備河をいうのにカジカを持ってきた。一つの習慣でもあり歌を作るための技術でもあったわけだ。枕詞とまではなっていないが「蝦鳴く」は神奈備河の清流をたたえるための修飾語の役を負っている。神奈備河は神奈備山のふもとをめぐる河をいうので、飛鳥川か竜田川かなどといわれるけれど、三輪も春日もそれぞれに神奈備河を持っているから、この歌はいずれこの河なるや知りがたい。
カジカの鳴く神奈備河にかげをうつして今ごろヤマブキの花が咲いているのであろうか、というのでたれにも受けいれられる美しい歌である。(略)「かげ見えて」の「かげ」はヤマブキの水に写っているかげではなく、神のかげであるかもしれない。(略)そういう用意があっての「かげ見えて」であるなら、この歌はいっそう美しさを増す。とまれ、調子のよい流麗な歌だから、これが本歌となって後世さまざまの模倣歌を生んだ。厚見王の系統は未詳、この歌とともに万葉集に三首でているにすぎない。