2025年5月29日(木)

曇り空、だが夕刻より雨が降りだすらしい。夜、雨。

いつのことだか

  一年のうちに数日あるかなきかこのよき日なりわれ破天荒

  病ひのこともとんと忘れてあばれたき欅大樹の真下に遊ぶ

  楠の木も旧葉落として新葉に変はるその下を行く息荒く吐き

『大学』第一章 二 古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先づその国を治む。その国を治めんと欲する者は先づその家を斉ふ。その家を斉へんと欲する者は先づその身を脩(修)む。その身を脩めんと欲する者は先づその心を正す。その心を正さんと欲する者は先づその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先づその知を致む。知を致むるは物に格(至)に在り。

物格りて后至まる。知至まりて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉ふ。家斉ひて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。

  身を脩め心を正し誠なすさすれば天下平らかになる

『秀歌十二月』四月 土岐善麿

指をもて遠く辿れば水いろのヴォルガの河のなつかしきかな (歌集・黄昏に)

第二歌集『黄昏に』は(明治)四十五年二十八歳の時、ローマ字こそつかわなかったものの、表記の仕方は依然として三行書き。(略)善麿は大正四年三十一歳、第五歌集『街上不平』を出すまでなおそれをつづけた。この歌は『黄昏に』の巻頭に出ていて次のように書かれてある。

指をもて遠く辿れば水いろの
ヴォルガの河の
なつかしきかな

今からすれば何でもない歌だ。何がなつかしいのか、と若い世代はいぶかるだろうが、時代は明治の末ごろである。それがミシシッピーやナイル河でなしに、革命前夜の騒然たるロシヤの国のヴォルガ河である。地図をひろげてたどって行くなら、上流はモスクワのへんにも及びつくだろう。その水いろの線をなつかしがっている。自然主義から出発し、啄木と併称される善麿は次第に社会主義傾向を帯びるようになるが、この歌はそういう道程における多感な青年のあこがれごころが清々しく歌いあげられていて、読者をとらえるのである。当時としてはじつに新しかった。進歩的だったのだ。三行書きの新形式もこれと無縁であるはずがなく、根岸派や明星派の歌に激しく抵抗し反逆して生活派ともいわれる一新風を開拓した。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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