朝から雨、夕刻に曇りになるらしい。
大岡昇平『わが復員わが戦後』を読む。帯文に「『俘虜記』誕生前夜から昭和末へ」とある。大岡の復員次第、戦争次第がよく分かる。裕仁天皇への思いを描いた「二極対立の時代を生き続けたいたわしさ」、そう昭和天皇は「いたわしい」のだ。それと付属した阿部昭と城山三郎の短文がいい。
よもぎ餅やはらかねつとりを喰へるかも歯にねばりつくこの旨きもの
この日ごろ和菓子買ひきて喰らふなり水無月品よきわれには過ぎつ
みたらし団子を頬張る妻のひとつぶひとつぶ口を大きく
『大学』第一章 三 天子より以て庶人に至るまで、壱に是れ皆身を脩むるを以て本と為す。その本乱れて末治まる者は否ず。その厚かる所(可)き者薄くして、その薄かる所き者厚きは、未だこれ有らざるなり。此れを本を知ると謂ひ、此れを知の至まりと謂ふなり。
天子より庶民に至るまで身を脩めそれを本なすことたいせつなり
前川佐美雄『秀歌十二月』四月 土岐善麿
じめじめとこの泥濘路のくらやみに人間住めり何にも知らず (歌集・街上不平)
「貧民窟巡察」と題する連作の一首である。「泥濘路のくらやみ」は多分当時における東京市江東地域の貧民街をいうのであろうが、昭和の初めごろ私もその地域を何回かみているから、この歌のいわんとする心がよくわかる。どんなにみじめな、また陰惨な生活をしていても、ひとびとは今日のように目覚めていなかった。運命としてあきらめいたのだが、それが善麿には歯がゆく思われたのである。その思いを「何にも知らず」の中にふくめているものの、これが善麿としてはせいいっぱいなのだ。爆発する心をおさえている。それがわかるだけに、またそれゆえにこそこの歌は人の心に深くしずかにしみこむのである。その歌が「貧民窟巡察」であり、その歌集の名が「街上不平』「であった。それが善麿の歌なのだ。いや哀果の歌なのであった。(略)いつから哀果の号を廃したのか。その歌の三行書きを廃したのと無関係ではなさそうだ。その社会部長であった読売新聞を辞し、伝統に「還元」した表記形式による第六歌集『緑の地平』を出した大正七年ごろからのようだが、(略)私などには土岐哀果の名が親しいのだ。ここにとりあげた二つの歌も(略)哀果の歌なのであった。土岐哀果の歌であったのだ。