曇っているようだが、陽が出る時もあるらしい。
蕺の花さかりなり公園の縁いろどれる真白き花
どくだみの花むらふかく歩み入りわれも蕺の如くにあらむ
見る間にも降りだしさうな曇り空、春土耕す田の色変ず
最近は蓮華の赤き田んぼ無く土ひっくりかへし何か建つべし
空中にあざけりつつも飛ぶ鷺の地上はるかに遠ざかりゆく
『大学』第二章 三 康誥に曰く、「克く徳を明らかにす」と。大甲に曰く、「天の明命を顧ひ諟す」と。帝典に曰く、「克く峻徳を明らかにす」と。皆自ら明らかにするなり。
湯の盤の銘に曰く、「苟に日に新たに、日々新たに、又日に新たなれ」と。康誥に、曰く、「新たなる民を作せ」と。詩に曰く、「周は旧邦なりと雖も、その命は維れ新たなり」と。是の故に君子はその極を用ひざる所なし。
詩に云ふ、「邦畿千里、維れ民の止まる所」と。詩に云ふ、「緡蛮たる黄鳥は丘隅に止まる」と。子曰く、「(黄鳥すら)止まるに於いてはその止まる所を知る。人を以てして鳥に如かざるべけんむや」と。詩に云ふ、「穆穆たる文王は、於、緝熙に止まるところを敬しむ」と。人の君たりては仁に止まり、人の臣たりては敬に止まり、人の子たりては孝に止まり、人の父たりては慈に止まり、国人と交はりては信に』止まる。
さまざまなる典拠を引きて意を誠とする工夫述べたり
前川佐美雄『秀歌十二月』五月 与謝野鉄幹
大空の塵とはいかが思ふべき熱き涙の流るるものを (歌集・相聞) ひ、ろい宇宙からすれば人間などまるで空に浮遊している塵みたいなものかもしれないが、自分はけっしてそんなふうには思はないのだ。なんとならば、このように人を思って熱い涙を流しているのではないか、とこれは第七歌集『相聞』の巻頭歌だから、まさしく相聞の歌にちがいない、(略)ほとんど独語にひとしい形で歌われているだけに、反発を感ぜず、作者とともに「熱き涙の流るるものを」と唱和してしんみりするのである。(略)この「大空の塵とはいかが」の歌の方が、どれほど立ちまさっているかは、技術ひとつにしてみてもこれほど巧みなものはなく、その高く美しき詩精神に至っては同時代類を見ないのである。