ずっと曇っていた。
わが宿をたづねくるはずの鶯の鳴く声聴こえず春もすぎゆく
いつのまにか六月の声あひ変らずすずめが鳴けばすずめ寄り来
わが宿といふにはどこか洋風のベッドの上に寝そべりてゐる
『大学』六章一 続 詩に云ふ、「楽只しき君子は、民の父母」と。民の好むところはこれを好み、民の悪むところはこれを悪む。此れをこれ民の父母と謂ふ。
詩に云ふ、「節たる彼の南山、維れ石巖巖たり、赫赫たる師尹よ、民具に爾を瞻る」と。国を有つ者は、以て慎しまざるべからず。辟るときは則ち天下の僇と為らん」と。
詩に云ふ、「殷の未だ師を喪はざるや、克く上帝に配へり。儀しく殷に監みるべし、峻命は易からず」と。衆を得れば則ち国を得、衆を失へば則ち国を失うを道ふなり。
詩経にいふ君子は民の父母、国を治むるには慎重に、民の心を重んずべし
前川佐美雄『秀歌十二月』五月 中村憲吉
身はすでに私ならずとおもひつつ涙おちたりまさに愛しく (歌集・林泉集)
自分のからだはもはや自分ひとりのものでない。いっしょに生きて行かねばならぬ妻があるのだ。そう思うと人生愛惜の念いたえがたく、不覚にも涙を落したというのである。歌集『林泉集』の終りの方にある「磯の光」と題する一から五にわたる三十四首の連作冒頭の一首。
もの思ひおもひ敢へなく現なり磯岩かげのうしほの光
岩かげのひかる潮より風は吹き幽かに聞けば新妻のこゑ
というふうに、結婚してそのあと、妻といっしょに母をもともなって瀬戸の海岸へ遊びに行った時の作である。その幸福感は「もの思ひおもひ敢へなく」の歌のとおり、まさに「現なり」であり、「磯岩かげのうしほの光」のようにみちみちている。けれど結婚は人生の大事だ。(略)「身はすでに私ならず」というような思いは、人生的責務を重んじるものでないと出てこない言葉だが、さすれば「涙おちたり」は幸福の絶頂にあって流した歓喜の涙だけではない。半ばは悔恨に似た涙も流していたにちがいないのではないか。それは同じ一連の中に次のような歌があることによって了解できる。
来しかたの悔しさ思へば昼磯になみだ流れて居たりけるかも
こし方の悔しさおほし低頭してなみだ流すも慰めと思へ
憲吉は大正四年二十七歳、東大の経済科を出ると帰郷して結婚したのだから、この二つの「悔しさ」の歌は、東京における学生生活をいっているのだということはほぼ察しがつく。それがどんなふうであったかは憶測のかぎりではないが、なお当時の退廃的な思潮の中にあって種類さまざまの影響を受けたにちがいない、その都会生活を反省しているのであろう。この二つの歌の「悔しさ」が歓喜の涙といっしょに流れたのである。だからその感情は「悲しく」の文字を当てるにしのびず、あえて「愛しく」と表記するほかなかった。歓喜と悔恨の相交錯する切実の叙情で、若き日の憲吉の代表作である。