2025年6月13日(金)

曇りだが、蒸し暑い。

  ティッシュをテイッシュの箱から引き出して鼻水を拭く老いぼれならむ

  何枚もテイッシュを引き出し鼻汁をかむわれならなくに

  テイッシュを何枚も被りこの世よりあの世へ去らむとしたるわれなり

『中庸』第一章一 天の命ずるをこれ性と謂ふ。性に(したが)ふをこれ道と謂ふ。道を脩むるをこれ(おしへ)と謂ふ。道なる者は、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子はその(み)ざる所に戒慎(かいしん)し、その聞かざる所に恐懼す。隠れたるより(あら)はるるは(な)く、微かなるより顕はるる莫し。故に君子はその(どく)を慎むなり。

  君子といふは道を思ひて公明正大隠しごとせず独りを慎む

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 石川啄木

灯影(ほかげ)なき室に我あり父と母壁のなかより杖つきて出づ (同)

いつのまにか日は暮れ沈んでいたが、電灯をつけるのも忘れてもの思いにふけっていた。すると暗い壁面から年老いた両親が杖をついて出てくるような気がした。いやその幻影をまざまざと見て、世にもつたなき自分を恥じて涙が流れてしかたがなかった。これは親孝行の歌として有名だが、(略)それもふくめてもっと切実な、ひろい意味の人間の悲しみを歌っているので、たれの心も嘆かせる。前の歌にくらべると、いっそう切実である。現実生活に密着して歌われているだけに、その幻影はたれの目にも見えて来て、限りなく悲痛である。これらの歌をふくむ「我が愛する歌」百五十一首は『一握の砂』の中でももっともすぐれた歌が多いだけでなく、またその全作品の中でも圧巻たるはいうまでもない。そうして『一握の砂』は前の歌につづく、

  頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず

から来ているのはむろんだが、歌は全部三行書きになっている。(略)一行書きにすると啄木の歌の技術の冴えがいっそうよくわかるのである。才にまかせて歌いぱなしに歌ったのではない。技術には案外に苦労している。その歌が新しいようにその技術もまたそれにともなって新しかったが、なみなみならぬ勉強をしていたのである。啄木はわずか二十七歳で世を去っている。若かったことは若かったけれど、だからといって組みしやすいなど思ってはならない。若き世代にいうのである。この「若い世代」とは、私どものことを指しているのであろう。肝に銘じてあなどりなどするまい。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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