2025年6月17日(火)

朝から暑い。35℃くらいになるという。八時半には冷房だ。

  妻が買ふ小さき甘きトマト食ふ赤きしづくをしたたらせつつ

  幽霊のやうに出てきてまた隠る人呪ふこと舌をだしつつ

  闇にするこの声は猫が鳴く声か長く鳴きつつすがたは見えず

『中庸』第二章三 子曰く、「回(顔回・孔子の門人)の人と為りや、中庸を択び、一善を得れば、則ち拳拳服膺して、これを失はず」と。

子曰く、「天下国家も均しくすべきなり。(しゃく)(ろく)も辞すべきなり。白刃も踏むべきなり。中庸は(よ)くすべからざるなり」と。

  顔回は中庸を択び身につくる然れども中庸はむずかしきもの

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 北原白秋

昼ながら幽かに光る螢一つ孟宗の藪を出でて消えたり (歌集・雀の卵)

前の歌を作ってから二か月とたたないころの歌である。同じくたれが見てさえたちどころにわかるすぐれた歌で、また同じく感覚的、敏感にその情景をとらえているものの、それがあまり目立たないのはさすがである。目立ちすぎては情感を殺ぐ。あえていぶしをかけているように見えるのは用意あってのことなのだ。この時分の白秋の生活は貧の底をついている。そういう生活苦がそれとなく作用していないとはいわないまでも、白秋はあれで心づかいのまことにこまかい人だった。いつか物語るおりもあろうが、心にくきばかりそれがこの歌の中にも感じられる。文句なしにともに白秋壮年期の秀歌である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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