今日も朝から暑い。
極端に踏切の減りし私鉄沿線自殺するにも処を択ぶ
かんかんと踏切鳴れば待ちつづく四輌電車の軽やかに過ぐ
踏切に溜る人々それぞれに腹に一物隠してをらむ
『中庸』第九章二 斉明盛服して、礼に非ざれば動かざるは、身を脩むる所以なり。
讒を去り色を遠ざけ、貨を賤しみて徳を貴ぶは、賢を勧むる所以なり。その位を尊く
しその禄を重くし、その好悪を同じくするは、親を親しむことを勧むる所以なり。官盛んにして任使せしむるは、大臣を勧むる所以なり。忠信にして禄を重くするは、土を勧むる所以なり。時に使ひて薄く斂むるは、百姓を勧むる所以なり。日に省み月に試みて、既稟事に称ふは、百工を勧むる所以なり。往くを送り来たるを迎え、善を嘉して不能を矜むは、遠人を柔ぐる所以なり。絶世を継ぎ廃国を挙げ、乱れたるを治め危ふきを持し、朝聘は時を以てせしめ、往くを厚くして来たるを薄くするは、諸侯を懐くる所以なり。
凡そ天下国家を為むるに、九経あり。これを行なふ所以の者は一なり。
天下国家を治むるには九経を実践すその根本は一なり
前川佐美雄『秀歌十二月』七月 東歌・上野国歌
吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野のおくもかなしも (万葉集巻十四・三四〇三)
「まさか」は現在ということ。まさしく、現に今というほどの意。「草枕」は旅にかかる枕詞だが、ここでは「多胡」にかかる。万葉集中ただ一つの変則例である。「多胡」は群馬県多野郡多胡村(現在、吉野町)であり、入野は山の方へ深く入りこんでいる野であろうが、地名のような感じもする。一首の意は「自分の恋ごころは現在このようにせつないけれど、多胡の入野の奥ふかいように遠い先々も悲しいばかりせつなく思われる」というのである。「草枕多胡の入野の」は「おく」をいうための序詞であり、「おく」は場所だけでなく時間もいうので、将来もせつなく悲しく思われるといっている。
一首の中に「かなし」の語をくり返しているが、少しもわずらわしくない。かえって結句の「おくもかなしも」は泣き甘えているがごとき口調の感じられる切実な語で、またつつましい女ごころのあわれさをうったえているいる。東歌に似合わず俗な民謡調の感じられぬ、そうしてどこか奥深いものを思わせる、何ともいいようのない、よい響きをつたえる可憐の作だ。
(略)東歌はだいたいが民謡であり、民謡ふうのものが多いのだから、そうしてそれは民謡ゆえに恋愛の歌が中心であるのだから、特定の夫とか妻の歌と解したのでは東歌らしさがなくなるだろう。(略)それにしても東歌は個人の作でもあろうし、集団の中から生まれたものもありうが、東国地方で行われていた歌であって、作者はむろんわからない。その作られた地方にしてもわかっている国のものもあり、わからない国のものもある。