今朝も涼しいが、温度は上がるらしい。
耳を穿ることのたのしさあやふさによろこぶわれの綿棒あやし
綿棒を耳の穴へと突っ込みて深く突っ込むあやしあやし
耳の穴に綿棒深く突っ込みてよろこぶわれかおのづから笑む
『中庸』第十七章 仲尼は、尭・舜を祖述し、文・武を憲章す。上は天時にり、下は水土にる。辟へば天地のせざることなく、せざることなきが如し。辟へば四時のひに行るが如く、日月のる明らかなるが如し。万物並び育して相ひ害はず、道並び行なはれて相ひ悖らず、小徳は川柳し、大徳はす。此れ天地の大たる所以なり。
孔子は小徳は川柳し大徳は敦化す此れ天地の大たる所以と言ひき
前川佐美雄『秀歌十二月』八月 川田順
星のゐる夜空ふけたりわが船の大き帆柱の揺れの真上に (歌集・青淵)
熊野旅行歌七十一首中、「紀州灘船中」と題する十二首中の一首である。
あかあかと漁火もやし沖釣のあまの小舟ら闇のなかに浮く
出雲崎大島の辺に火をつらね鰯とる舟は夜もすがらなし
岸を打つ潮騒さやにきこえつつ沖ゆく船の夜はふけにけり
などの佳作がこの歌の前にある。どこか人麿や黒人の舟行歌に似えた感がある。作者も多分それを心に置いて作ったのだろうが、これは全部夜の舟行歌であるのが注意せられる。そこに別種のおもむきが生じた。この旅行は炎暑八月のことであったから、夜の海上とはいえ船室では眠り難かったのだろう。また物めずらしさも手伝って甲板に出て海風に吹かれていた。デッキテェアに仰向きになって、澄みわたる夜天の星を眺めていたのか。すでに天の川の流れも見えたはずだが、ふと気がつくとまっ黒な太い帆柱が揺れながら突っ立っている。その上にひとしお明るく光る星がある。織女星なのだ、と。この歌はそこまではいっていないけれど、そういう情景も思いしのばせるほどに、複雑な内容をよく単純化して大きな調べの中に融合させている。順の全作品の中でも特にすぐれており、身も心も満ち足りているといったふうである。
この歌は昭和五年刊行の第四歌集『青淵』にはいっているが、作ったのは大正十二年四十二歳の時で(略)、順自身も「熊野歌七十一首には力の限りを尽くした」といっており同門の木下利玄は「熊野歌は、君が歌壇復活後の最も勝れた収穫であると、私は思ってゐる。これも君の胸中にゐる詩人が、平素は非常に眩るしい雑事の為に、睡眠を余儀なくせられてゐるのが、熊野の奥の幽邃な大自然に接して、其眠りから覚めた結果であろうと考へる」と絶賛した。(略)大正八年窪田空穂を知るに及んで、作風は一変し、その影響感化を受けて写実主義風になる。熊野歌はそういう時期における一頂点を示すものである。