朝、少しだけふらなかった。その間にゴミ捨てに。しかし、後は雨。
大浴場
温泉の床に古びし石のタイル細かき傷あり足裏痛む
温泉の湯はよけれども浴場の敷石にある傷に苦しむ
痛い、いたいと声に小さく告げたれどだれひとりすら親身にあらず
すっきりとは晴れぬ箱根の山ののぼやけるごときは暑さのゆゑか
さねさししき箱根の山々の深きところの湯に浸かりをり
『中庸』第十九章一 詩に曰く、「錦を衣てをふ」と。その文の著はるるを悪むなり。故に君子の道は、として而も日々にかに、小人の道は、として而も日々に亡ぶ。君子の道は、淡くして厭はれず、簡にして文あり、温にして理あり。遠きの近きことを知り、風の自ることを知り、微の顕なることを知れば、て徳に入るべし。
詩に云ふ、「潜みて伏するも、亦ただこれ昭かなり」と。故に君子は内に省みて疚しからず、に悪むことなし。君子の及ぶべからざる所の者は、其れ唯だ人の見る所か。
詩に云ふ、「の室に在るをるに、はくはに愧じざれ」と。故に君子は動かずして而も敬せられ、はずして而も信ぜらる。
錦を衣てをふと詩経に云ふ君子の道は人目をひかず
前川佐美雄『秀歌十二月』八月 平賀元義
在明の月夜をあゆみ此園に紅葉見にきつ其戸ひらかせ (同)
「在明」は月が天にありながら夜の明けること、十六夜以後の月であるが、この場合は月の明るい夜ふけごろのつもりだろう。月の明るい晩に女のところへ行ったのだ。「紅葉見にきつ」といってはいるが、どんなに月が明かるかろうと、紅葉の美しさは見えるはずがない。が、そうでもいわないではいかに元義といえどもばつが悪い。この歌は女にむかってお体裁をいった。よい月夜なので庭の紅葉を見にきた、さあ戸をあけよというのである。「其戸ひらかせ」と敬語をつかっているが、あけなさい、と命令しているような口調である。もしかしたらこうもあろうかと用意して作ってきたのが、あるいはそこで作った即興なのか、判じかねるけれど、これを女に歌って聞かせたことだけは確かなようだ。そんな口つきの歌である。
万成坂岩根さくみてなづみこし此みやびをに宿かせ吾妹
「ますらを」の好きな元義は、また「みやびを」が好きであった。この歌は岡山からそういう坂を越えたところにある宮内なる遊里の巷で、そこの貸座敷の門ごとに立っ
妹が家の板戸押し開き我入れば太刀の手上に花散り懸る
皆人の得がてにすとふ君を得て君率寝る夜は人な来りそ
女のところへ遊びに行くにも太刀を佩いて行く。あとの歌は得意思うべしである。吾妹子先生といわれただけあって、吾妹子の歌が多い。中でも「五番町石橋の上で」の歌は有名であるからいう必要もないだろう。
(略)脱藩して、放浪生活をし、古学を修めた。直情径行、磊落不羈、まれに見る好人物で常軌を逸する行為が多い。逸話に富む。近世におけるめずらしい万葉調の歌人、慶応元年六十六歳で没した。(略)しかしそのまっ正直な歌と、人物が愉快だから、実質以上の歌人として喧伝されている傾きがある。ただしくは平賀左衛門太郎元義というのがその名である。