晴れて暑くなる。
一串に四つみたらし団子が繫がりてわれも頬張る妻も頬張る
口の周りに団子の蜜のまつわりて幼子のごとき老爺なりき
上手にみたらし団子を口に入れもごもご申すわが妻なりき
『孟子』梁惠王章句上7-9 王曰く、「是の若く其れ甚しきか」と。曰く、「殆ど有たより甚し。木に縁りて魚を求むるは、魚を得ずと雖も、後の災ひ無し。き為す所を以て、き欲する所を求むるは、を尽くして之に為し、後必ず災ひ有らん」と。曰く、「聞くことをきか」と。曰く、「と楚人と戦はば、則ち王以てれか勝つと為す」と。曰く、「楚人勝たん」と。曰く、「然らば則ち小はより以て大に敵す可からず。寡は固より以て衆に適す可からず。弱は固より以て強に敵す可からず。寡は固より以て衆に敵す可からず。弱は固より以て強に敵す可からず。海内の地、方千里なる者九。斉集めて其の一を有す。一を以て八を服するは、何を以て鄒の楚に敵するに異ならんや。ぞ亦其の本へ反らざる。
木に縁りて魚を求むるごとくにて王は王たらん本に反るべし
前川佐美雄『秀歌十二月』十月 有馬皇子
磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかへり見む (万葉集巻二・一四一)
有馬皇子は孝徳天皇の子であるが、母は阿倍倉梯麿の娘、小足媛。(略)この有馬皇子が斉明天皇の四年十一月、天皇の不在中に反逆を企てた。天皇は(略)皇孫八歳建王を失われた傷心なかなか癒えず、十月から皇太子中大兄をともなって紀の湯に行幸し、滞在中であった。その時、京の留守官蘇我赤兄が有馬皇子に謀反をすすめた。(略)皇子は赤兄を信じて家へ帰って寝た。その夜中である。皇子の(略)家を囲んだのは赤兄のひきいる兵であった。まんまと赤兄の術中におちいったわけだが、皇子は捕えられて紀の湯に送られ、そこで皇太子じきじきのきびしい訊問にあった。その答えが「天と赤兄と知る。吾全解らず」であった。(略)あわれである。天皇には(略)甥にあたるが、仮借しなかった。藤白坂まで送り戻し、そこで絞に処した。時に皇子は十九歳であったが、これは中大兄と藤原鎌足のしくんだ謀略だったといわれており、赤兄は手先にすぎなかったようだ。(略)
この歌は皇子が護送されて行く途中、紀の湯にほど近い磐代で歌われる。「自分はこうして磐代まで来たが、この浜の松を結んで神にお祈りする。もしも幸に無事であったならば、帰りにこの結び松をもう一度拝むことができよう」という意である。許されて帰れるとは思っていなかった。これまでの中大兄のやり口をかんがえて見ると助かるはずがないと思われた。覚悟はきめているものの万一ということがある。その心が磐代の岩に願い浜松の枝を結んで祈ったのだ。それだけにいっそう悲痛で、あわれを思わせるのである。(略)下の句「真幸くあらばまたかへり見む」と誦んでいると涙が流れる。哀切の語は一つもないのにそれがにじみ出てくる。心とことばが一つになているしらべから来るので、写生なんていうものではない。