今日はほんの少し気温上昇から免れるらしい。それでも33℃。
最近作った『九相詩』から
新詩相
不覚にもきのふけふとはおもはねど花散る下に死のにほひあり
われはまだ命存してあるものを定めのゆゑかおとろへたりき
入相の鐘のひびきを滅びへの報知とぞきく。山くだりきて
『孟子』梁恵王章句下11 斉の宣王 孟子をに見る。王曰く、「賢者も亦此の楽しみ有るか」と。孟子対へて曰く、「有り。人得ざれば、則ち其の上をる。得ずして其の上をる者は、非なり。民のと為りて、民と楽しみを同じうせざる者も、亦非なり。民の楽しみを楽しむ者は、民も亦其の楽しみを楽しむ。民の憂ひを憂ふる者は、民も亦其の憂ひを憂ふ。楽しむに天下を以。てし、憂ふるに天下を以てす。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。
楽しむも憂ふるも天下とともにといふことは王にならざること未だなし
前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 佐佐木信綱
ありがたし今日の一日もわが命めぐみたまへり天と地と人と (佐々木信綱歌集以後)
「ありがたし」と初句で切り、「めぐみたまへり」と四句で切っている。珍しい形ではないが、五句を「天と地と人と」と結んだような歌はめったにない。(略)たとい九音になってもここはたはり「アメとツチとヒトと」と正しく読む方がよい。その方が信綱の心にも、またこの歌の心にもかなうと思われる。
歌意はいうまでもないことだが、「じつにありがたいことである。今日の一日も自分の生命が無事に過ごすことのできたのは、天と地と人との恩恵によるものである」といって、生きて行くことは自分一人の力によるものではないとへりくだっている。
(略)
信綱は一九六三年十一月末、ふとしてひいたかぜがもとで一週間ほどわずらって十二月二日、熱海の山荘でなくなった。三代を生きぬいて数え年九十二歳、歌人としての古今第一の長寿を全うした。これは遺詠として見つかった三首のうちのはじめの歌だが、発病前に作ったのだろう。その一日一日は、この歌に歌われている心そのままに天と地と人とに感謝しながら生きていたのである。けっしてうまい歌ではないだろう。素人の歌かとまちがうほどだが、すでに巧拙を超えている。あらゆる歌を、あらゆる歌の技術を知りつくした人が、今は何ものにも臆するなく、自分の調べ、心の調べそのままに歌ったのである。おのずから心は天地人の間に通じて、このような形の歌になった。だからたれも及ばないのだ。及びつきようがないのである。限りなく丈高い歌で、しみじみとして頭のさがる歌である。