9月5日(金)

台風15号の影響か、雨。

骨散相

  露のいのちたちまち消えての原にうつろふ塵となりけり

  少しばかり明るくなりてはしゃぐなり。骨もちらばり何者にもあらず

  我がおもふ。骨も崩れて塵となる、たのしもたのし人にはあらず

『孟子』梁恵王章句下13 孟子 斉の宣王に謂ひて曰く、「王の臣、其の妻子を友に託し、而して楚に之きて遊ぶ者有らんに、其の反へるに及んでや、則ち其の妻子を凍餒せば、則ち之を如何せん」と。王曰く、「之を棄てん」と。曰く、「士師、士を治むること能はずんば、則ち之を如何せん」と。王曰く、「之を已めん」と。曰く、「四境の内治まらずんば、則ち之を如何せん」と。王左右を顧みて、他を言ふ。

  王はもともと仁を持たずば出征もかなはぬものと諫めたまふや

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 半田良平

独りして堪へてはをれどつはものの親は悲しといはざらめやも (歌集・幸木)

昭和十九年作。「信三を偲ぶ」九首中の一首で、この一連には「七月一日は陰暦五月十一日に当り朧なる夕月空にありい」の詞書がある。七月七日はサイパン島失陥、全軍が玉砕した日である。けれどもそれは後になって報じられたので、その日は何もわからなかった。詞書はそのことを物語っているが、この詞書はこの一連の作にあってはたいせつな意味を持つものである。良平の三男信三は、兵としてサイパン島にとどまっていた。

報道を聴きたる後にわが息を整へむとぞしばし目つむる

それがどんなに大きな驚きであったか。入る息、吐く息もとまるほどだった。目の先がまっ暗になってしまったのだろう。それがじっとたえしのんでいるさまの歌である。そうしてやがてしずかに感慨を叙したのがこの歌である。「独りして堪へてはをれど」といっている。この「独りして」は「たった一人で」あるとともに「黙って一人」という思いがこもっている。(略)涙をこらえてしのぶほかなかった。ましてやそれが「つはものの親」である。命をささげた兵の親であるだけに、それはいっそう切実、また悲痛であった。「悲しさといはざらめやも」といっているのはそれである。世の常の悲しみではない。「つはものの親」共通の悲しみをわが悲しみとしているだけに、この悲しみは客観的なひろがりを持っている。

かけ声だけのうつろな戦争の歌が多かった中で、この歌は今も真実の声を伝えるものである。この歌につづいて、

生きてあらば彩帆島にこの月を眺めてかゐむ戦ひのひまに

みんなみの空に向ひて吾子の名を幾たび喚ばば心足りなむ

彩帆はいかにかあらむ子が上を昨日も憂ひ今日も憂ふる

彩帆にいのち果てむと思はねば勇みて征きし吾子し悲しも

などの佳作がある。しかしこれにつづく「子らに後れて」と題する二首がとくに心に沁む。

若きらが親に先立ち去ぬる世を幾世し積まば国は栄えむ

人は縦しいかにいふとも世間は吾には空し子らに後れて

同感させられる。そうして同情する。「子らに後れて」といっているのは、良平は三人の子を三人とも死なしているからである。それもみな一人前に成人した子である。はじめに二男を、次に長男を、そうして最後に三男を、しかもみずから病気して、昭和二十年五十九歳でなくなった。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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