9月6日(土)

台風15号が行き、少し涼しいが、すぐに30℃になるらしい。

古墳相

  立ちのぼるけむりも消えて、わがありし。この世とやらも亡失のかなた

  古き卒塔婆の泣くごとく鳴るさびしさに、風吹けばいのちはてなむものぞ

  古きに埋めらるるかこのいのち。ただ何もなし、くだけはてつる

『孟子』梁恵王章句下14 孟子 斉の宣王に見えて曰く、「所謂故国とは、喬木有るの謂を謂ふに非ざるなり。世臣有るの謂なり。王には親臣無し。昔者進むる所、今日其の亡きを知らざるなり」と。王曰く、「吾 何を以て其の不才を識りて而して之を舎てん」と。曰く、「国君賢を進むるには、已むを得ざるが如くす。将に卑をして尊を踰え、疏をして戚を踰えしめんとす。慎まざる可けんや。

  王として慎重であれ賢者を進めるにはくれぐれも慎み深く

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 半田良平

一日の或る時刻には雀らは見ゆるところに一つもをらず (同)

病間の作であろう。ふと気がついてみるとスズメはひとつもおらない。屋根や庭木にとまってにぎやかに鳴きあっていたスズメがひとつも影を見せない。いったいどうしたのか、どこへ行ったのかと小首をかしげている歌である。そこで思いかえしてみると「一日の或る時刻には」必ずそのようなことがある。そのようなことがあったと気がついたのである。何でもない歌のようだが、そうではない。言葉と内容がひとつになっているので「一日の或る時刻」という感じ方、把握の仕方は「見ゆるところに一つもをらず」のそれと渾然一体化している。地味な歌だけれど深い味わいがある。詩人としての良平のよい面が最高度に出ている歌である。これを良平の代表作としてもよいだろう。私は大いに推奨するが、良平のよさはやはり師の窪田空穂のよさを継承するものであろう。(略)歌にくせがなく、たれにも共感される歌が多いように思う。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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