9月7日(日)

今日も暑いのだろう。

  朝には紅顔ありて夕べには白骨となる人のさだめぞ

  始めもなく終りもなきがこの世をばすごすぞ肯ふべきや

  小町の髑髏の目にもの飾られて、あなめあなめと申す

  絶世の美女も美男も死にすれば九相観にすがたあらはなり

『孟子』梁恵王章句下14-2 左右皆賢なりと曰ふも、未だ可ならざるなり。諸大夫皆賢なりと曰ふも、未だ可ならざるなり。国人皆賢なりと曰ひ、然る後之を察し、賢なるを見て、然る後之を用ひよ。左右皆不可なりと曰ふも、聴く勿れ。諸大夫皆不可なりと曰ふも、聴く勿れ。国人皆不可なりと曰ひ、然る後之を察し、不可なるを見て、然る後之を去れ。左右皆殺す可しと曰ふも、聴く勿れ。諸大夫皆殺す可しと曰ふも、聴く勿れ。国人皆殺す可しと曰ひ、然る後之を察し、殺す可きを見て、然る後之を殺せ。故に曰く、国人之を殺すなりと。此のしんお如くにして、然る後以て民の父母たる可し」と。

  国民の世論によって慎重に生伐決めるされば民の父母ならむ

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 松村英一

雨冷ゆるゆふべ俄かに火を熾し吾にあたれといふかわが妻 (歌集・山の井)

昭和二十三年の作で「小居雑銀」と題する十首中の一つである。冷たい雨の日の夕べに妻が炭火をおこして自分にあたれといった、というだけのことだからうっかりしていると見のがしてしまう。しかし心をとめて読み味わえば尽きぬ味わいがにじみ堕してくる。これは長い人生を、苦楽をともにしてきた老夫婦が、たがいにその身を思いやりいたわりあっているので、すでに愛情などという言葉を越えている。昼間から降っていた雨が日暮れになって冷え出した。寒いと思っていたらとたんに妻が炭火をおこしはじめた。それが「ゆふべ俄かに」である。この「俄かに」の語に感慨がある。妻の心がわかるからである。そうして「吾にあたれりといふかわが妻」と感謝している。「いふか」は「いうてくれるのがうれしいよ、ありがたいよ」という思いをこめているので、この「か」は疑問ではなく感歎の意につかわれている。仔細に見るとやはり年季のはいった人だけに一言一句もゆるがせにしていない。じみすぎるほどの歌だけれど、そうしてそれがこの人の歌風でもあるが、何となく米の飯を食っているようで、飛びつくほどのことはことはないが、いつまでも飽きないのである。この十首中には次のような佳作がある。

 みじめなる記憶の一つ糠をさへ煎るてくらひし妻とわが過去

 わが妻はもんぺをはずす時ありや深き歎きといふにもあらず

 髪白くなりて遥けき四十年妻虐げしわれにあらぬか

 わが手より受取る金を罪犯す如しと言ひて妻の持ちゆく

 思出を苦しといひ亦甘しといふ老いての心むなしとはせず

 両の手に膝をかかへて寒からず光はながき今日の夕ばえ

糟糠の妻とはこういうものであろうか。(略)これがこの人の歌の心である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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