朝晩はまあまあだが、昼はまた暑い。
公園の大き欅の影を出で太陽光の中にし入らむ
太陽のひかりの中に立ちあがるまぶしき女人
けやき大樹葉叢の繫りにすずめ数羽自由自在に飛びだしてくる
『孟子』梁恵王章句下15 斉の宣王問うて曰く、「湯、桀を放ち、武王、紂を伐つと。諸有りや」と。孟子対へて曰く、「伝に於て之有り」と。曰く、「臣にして其の君を弑す、可ならんや」と。曰く、「仁を賊ふ者之賊と謂ひ、義を賊ふ者之を残と謂ふ。残賊の人、之を一夫と謂ふ。一夫紂を誅するを聞く。未だ君を弑するを聞かざるなり」と。
武王が紂王を弑逆したと聞きしかど君たる者は殺さざりけり
前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 松村英一
しづかなる明暮にして渡り鳥わたるとき来ぬあかつきの声 (歌集・雲の座)
昭和二十九年の作で「篠の葉」九首中ひとつである。これは歌集『雲の座』に登載されるはずだが、この歌集は未刊である。しかし『松村英一全歌集』の下巻に入れられてある。この歌の前に、
目上びと大方死にて終戦後の十年にわが老いもしるけし
武蔵野のむらさきの種まきおきて必ずとわが頼むにもあらず
朝の空鳴きて四五羽の飛びゆくは椋鳥ならむまれまれに見し
というような佳作がある。いずれもしずかな口つきの歌で、何か思いあきらめているのかのようなおもむきが感じられる。この歌の渡り鳥は何だろう。ムク鳥があるからムク鳥かもしれないが、ムク鳥も四、五羽だけでなく群れをなすと数千羽ぐらいの時もある。夜明けごろねぐらをいっせいに飛び立って空を渡る。そうして夕方に小群をなしてあちこちからもどって来る。秋から冬中を来ているから、朝々ねぐらを飛び立って鳴きながら空を渡るのは壮観である。
この歌のあとに
心待つあかつき空に騒然と音はちかづくわたり鳥の群
というのがある。この方がいっそう優れているかもしれないが、その羽音、その鳴き声は騒然というにふさわしい。作者の家は城北である。新宿に近い西大久保の地だが、東京は森が多いから渡り鳥が来る。これは確かにムク鳥の歌だが、この人の歌としてはめずらしく美しい調べの、そうして心の澄んだ清らかな歌である。六十五、六歳の時の歌か。悪戦苦闘してようやくここにたどりついた。努力して来た人のおもかげがしのばれ、その心境に同情する。