9月8日(月)

朝晩はまあまあだが、昼はまた暑い。

  公園の大き欅の影を出で太陽光の中にし入らむ

  太陽のひかりの中に立ちあがるまぶしき女人

  けやき大樹葉叢の繫りにすずめ数羽自由自在に飛びだしてくる

『孟子』梁恵王章句下15 斉の宣王問うて曰く、「湯、桀を放ち、武王、紂を伐つと。諸有りや」と。孟子対へて曰く、「伝に於て之有り」と。曰く、「臣にして其の君を弑す、可ならんや」と。曰く、「仁を賊ふ者之賊と謂ひ、義を賊ふ者之を残と謂ふ。残賊の人、之を一夫と謂ふ。一夫紂を誅するを聞く。未だ君を弑するを聞かざるなり」と。

  武王が紂王を弑逆したと聞きしかど君たる者は殺さざりけり

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 松村英一

しづかなる明暮にして渡り鳥わたるとき来ぬあかつきの声 (歌集・雲の座)

昭和二十九年の作で「篠の葉」九首中ひとつである。これは歌集『雲の座』に登載されるはずだが、この歌集は未刊である。しかし『松村英一全歌集』の下巻に入れられてある。この歌の前に、

   目上びと大方死にて終戦後の十年にわが老いもしるけし

   武蔵野のむらさきの種まきおきて必ずとわが頼むにもあらず

   朝の空鳴きて四五羽の飛びゆくは椋鳥ならむまれまれに見し

というような佳作がある。いずれもしずかな口つきの歌で、何か思いあきらめているのかのようなおもむきが感じられる。この歌の渡り鳥は何だろう。ムク鳥があるからムク鳥かもしれないが、ムク鳥も四、五羽だけでなく群れをなすと数千羽ぐらいの時もある。夜明けごろねぐらをいっせいに飛び立って空を渡る。そうして夕方に小群をなしてあちこちからもどって来る。秋から冬中を来ているから、朝々ねぐらを飛び立って鳴きながら空を渡るのは壮観である。

この歌のあとに

   心待つあかつき空に騒然と音はちかづくわたり鳥の群

というのがある。この方がいっそう優れているかもしれないが、その羽音、その鳴き声は騒然というにふさわしい。作者の家は城北である。新宿に近い西大久保の地だが、東京は森が多いから渡り鳥が来る。これは確かにムク鳥の歌だが、この人の歌としてはめずらしく美しい調べの、そうして心の澄んだ清らかな歌である。六十五、六歳の時の歌か。悪戦苦闘してようやくここにたどりついた。努力して来た人のおもかげがしのばれ、その心境に同情する。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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