またまた暑い。
けふもまた大き欅の影に入りほっと息する安らかさある
けふもまた酷暑の報のありしかも耐へがたしわが軀変色したり
公園の砂利道をゆく右足と左足のバランス取れず
『孟子』梁恵王章句下16-2 今、此に有らんに、と雖も必ず玉人をして之を彫琢せしめん。国家を治むるに至りては、則ち曰く、『くの学ぶ所をいて、而して我に従へ』と。則ち何を以て玉人の玉を彫琢することを教ふるに異ならんや」と。
王が国家を治むると素人が本職に玉の磨き方を教ふると同じやうなり
前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 柿本人麿
ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ (万葉集巻一・四八)
「東の野を見ると、空はすでに暁の光がみなぎり、雲はくれないに染んでいる。ふとふりかえると月は西に落ちかかっていた」というので、情景がただちに読者の目に浮かんでくる。雄大な天地自然の景をとらえて一挙のうちに詠歌した。このしらべの美しさは格別のものだ。(略)
この歌は後に文武天皇となる軽皇子が安騎野へ行かれた時、人麿が従って作った長歌五首の中の一首。この時軽皇子はまだ十歳ぐらい。それは皇子の父である故日並皇子(草壁皇子)がかつて安騎野で狩猟されたことっがあり、それがやはり十歳ぐらいの少年であったことをなつかしく思っての安騎野行であったようだ。長歌は有名だけれどはぶくとして、他の三首の短歌も秀れた作だからあげておく。
安騎の野に宿る旅人うちなびき寝も寝らめやも古おもふに (同・四六)
真草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し (同・四七)
日並の皇子の尊の馬並めて御猟立たしし時は来向ふ (同・四九)
はじめて安騎野へ行ったのは大正十二年関東大震災の直前、八月の暑い日盛りだった。初瀬から吉隠を山越しに榛原に出、そこから現在の大宇陀町の中心地の松山に至り、そのころ神戸村だった迫間の阿紀神社にたどり着いた。そうしてこの神社を中心とする松山町へん一帯の山野が安騎野であろうと考えた。現在は阿紀神社にほど近い長山という丘陵の上に、この歌の碑が建っている。(略)けれど碑は畑の中で、行く道も定かにはわかりにくい。ようやくたずね当てても今ごろなら麦生を踏まねば立つ場所さえない。(略)そうしてこの歌の作られた年月は持統天皇の六年十一月十七日であるから、太陽暦では十二月三十一日午前五時五十五分前後、(略)この歌には雪は直接には歌われていないが、長歌には歌われている。それを思ってこの歌を味わうとまたひとし おに感深いものがある。
これで前川佐美雄『秀歌十二月』を読み終えることになる。なかなか苦労であった。鑑賞のことばが長すぎて、冗漫なところがあって、なんとかならないものかと思いつづけていた。(略)が多いのはそのせいである。つぶさに読みたいものは、本文に寄るがよかろう。しかし知らない歌もあっておもしろかった。
ありがとうと言って置きたい。