9月11日(木)

暑そうであるが、午後雨が来る。

また蓼科へ行ってきた

ことしまたに

  SAにつばめくる大きく廻り、低きにも来る

  蓼科といっても狭き一隅のいろりの宿にこよひは泊す

  蓼科の山の夕べに雨来り。ひとしきり激しく、やがて止みなむ

『孟子』梁恵王章句下17 斉人、燕を伐ちて之に勝つ。宣王問うて曰く、「或るひとは寡人に取る勿れと謂ひ、或るひとは寡人に之を取れと謂ふ。万乗の国を伐ち、五旬にして之を挙ぐ。人力は此に至らず。取らずんば必ず天の殃有らん。之を取ること如何と」。

  宣王が燕の国を取るものか取らざるものか如何にせむとや 

林和清『塚本邦雄の百首』。副題に「塚本邦雄の血のあと」とある。

革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ (水葬物語)

昭和二六(1951)八月七日、第一歌集『水葬物語』が上梓され、塚本邦雄はこの歌をもって、華々しい脚光を浴びた――わけではなかった。

限定一二〇部和綴じ本という世に広まることを想定しまいような出版形態をとったのは、夭折した盟友・杉原一司への追悼の意をこめたからである。

塚本は歌人よりも、畏敬する作家や文学者に多く謹呈した。その中でこの才能に反応したのが三島由紀夫と中井英夫であった。これが塚本の歌人としての出発となる。上梓の日、八月七日は三一歳の誕生日だった。  

聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火藥庫 (水葬物語)

革命家作詞家とは誰か。革命家でもピアノを弾く作曲家でもない。戦後日本への社会批判、ダリの絵との類似、定型と意味の切れ目の拮抗など、議論百出したが、やはり液化ピアノの黒い冷たさには魅了される。

それにくらべて聖母像と火薬庫のつながりは構図的に理解しやすい。母性の森をぬけたところには爆発寸前の火が待つのだ。人間の歴史はそのようにくり返されて来た。

「もはや戦後ではない」と言われたのがこの五年後。塚本はそこにつづく戦前を見た。

掲出した二首ともに、歌集巻頭「平和について」の章にある。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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