昨夜、雨だったのか地面が濡れている。そして、また雨。
廃墟のごとき外観なれど人多し。熱きを好みたりしか
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尖石の庭に大きな栗の木あり。小さなの実、日におして
栗の木に射すひかりあり。曇り日をわづかにとどく照らす
『孟子』梁恵王章句下18 斉人 燕を伐ちて之を取る。諸侯将に謀りて燕を救はんとす。宣王曰く、「諸侯寡人を伐たんと謀る者多し。何を以て之を待たん」と。孟子対へて曰く、「臣七十里にして政を天下に為す者を聞く。湯是なり。未だ千里を以て人を畏るる者を聞かざるなり。書に曰く、『湯めて征する、り始む』と。天下之を信ず。東面して征するなり。書に曰く、『湯一めて征する、葛自り始む』と。天下之を信ず。東面して征すれば西夷怨み、南面して征すれば北狄怨む。曰く、『奚為れぞ我を後にする』と。民の之を望むこと、大旱のを望むが若し。市に帰く者止まらず。耕す者変ぜず。其の君が誅し、而して其の民を弔ふ。時雨の降るが若し。民大いに悦ぶ。書に曰く、『我が后をつ。后来らば其れ蘇らん』と。
我が君、湯王を待ちかねて君こそ来れば其れ甦る
林和清『塚本邦雄の百首』
眠る間も歌は忘れずこの道を行きそめしより夜も晝もなし (第一歌集以前)
塚本邦雄がいきなり『水葬物語』に至ったわけではなく、当然その前の長い初心時代があった。大正九年(1920)滋賀県神崎郡五個荘村宇川並に生れまれ、就職までそこに育った。兄の春雄は北原白秋主宰「多摩」の会員であり、家内に短歌のある感興であった。
最初はその影響で作歌をはじめ、書架にあった『万葉集』『古今集』『新古今集』をはじめとして、『みだれ髪』や『赤光』などを耽読した。
塚本はとにかく多作で、膨大な歌を詠みつづけた。まさに夜も昼も、起きている間も、夢の中でも。
粥煮ます母に寄り添ひ見る雨は木々の新芽に沁みゆきにけり (第一歌集以前)
塚本の父は欽三郎、近江商人として盆暮以外は本社のある大阪か東京で勤務していた。酒が元で健康を害し、塚本が生誕した年に三五歳で早世している。母の壽賀は、早くに寡婦となりつつ四人の子をそだてた。
こんな優しい、息子から母への愛の歌もめずらしい。雨のように心にしみてくる。母も短歌を愛好する人であり、二人で歌の本を開いて語り合う、という歌もある。
しかし戦争の黒い影は迫っており、徴用で呉へと発った息子の身を最後まで案じながら、空襲激化する昭和一九年(1944)に、母は五四歳で他界した。