寒いくらいだ。台風が南方をかすめている。
砂原浩太朗『雫峠』を読む。六編の短編からなる一冊だが、定番の神山藩もの。「雫峠」に切迫感があり、逃れる二人に行く末も暗示している。おもしろいのだ。
今日もまた公園のけやき樹に立ちむかふ。激しき光を透かしながら
見る具合にあはせ太陽の激しきひかりを避けてぞ歩む
あひかはらず砂地にスパイクの跡残し、少年たちはサッカーをする
『孟子』公孫丑章句25-12 曰く、「敢て其の異なる所以を問ふ」と。曰く、「宰我・子貢・有若は、智を以て聖人を知るに足る。なるも其の好む所にねるに至らず。宰我は曰く、『予を以て夫子を観れば、尭舜にること遠し』と。子貢は曰く、『其の礼を見て、而して其の政を知り、其の樂を聞いて、而して其の徳を知る。百世の後より百世の王をするに、之を能く違ふこと莫きなり。生民り以来、未だ夫子有らざるなり』と。有若は曰く、『民のみならんや。麒麟のに於ける、鳳凰の飛鳥に於ける、太山のに於ける、のに於ける類なり。聖人の民に於けるも亦類なり。其の類より出でて其のに抜く。生民自り以来、未だ孔子より盛んなるは有らざるなり』と」
孔子は同類中から抜け出して孔子より盛徳あるもの有らざらん
林和清『塚本邦雄の百首』
菓子屋「閑太」に人一人入りそのままの長夜星よりこぼるる雪 『豹變』
一首の中に物語を内包する手法は第一歌集からの事だが、この時期の物語はかつての絢爛たる悪の美学ではなく、初老の作者の身近に起こるような市井の逸話が多い。明治大正期の名短編小説のようで渋い。
この歌も何が起こるわけではない。和菓子屋にひとり入ってそれきり出てこない、というだけのこと。満天の星がしだいに雪模様に変わってゆく。屋内には音もせずしんしんと夜は更けてゆく。それをずっと見続けている視点も怖い。京都の老舗が舞台かと思ったが、「閑太」は江戸風の名前のようでもある。
肝よりむしろたましひ病むと診られける椿醫院のうへの夕空 『豹變』
塚本はこのころ肝炎により治療を受けている。「椿醫院」は得意の架空名称だが、実際に某医院へ通院したのだろう。ほかにも「肝炎きざす」「肝膽相照らすといへどひひらぎて」「きさらぎの肝膽翳る」と臓器を病む歌が頻出する。塚本の歌はこういう現実の体験を契機として詠まれることが意外に多い。
また「白粥に肝・腎透りつつ」など粥の歌も多く、食養生していたことも窺わせる。つねに濃厚な塚本の美学がこの時期すこし淡泊気味になるのも面白い。「朝寝朝粥そのなづながゆ」という歌もあった。