10月12日(日)

涼しいですな。やっと秋かな。

評判の永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』を読む。木挽町は芝居町。そこでの仇討ちも芝居であった。登場人物たちの優しさのおかげで成功する仇討ち芝居。なかなかに愉しめたのである。中島かずきの特別エッセイに標題が『仇討ち』でなく「あだ討ち」としてあるのも、深く納得する。

  櫻井翔のへたくそ演技それでもドラマ「放送局占拠」楽しむ

  へたくそな役者はあまたありされどもかこむ名優あらむ

  名優にかこまれへたくそ役者ども意識せざるか一向に駄目

『孟子』公孫丑章句28 孟子曰く、「賢を尊び能を使ひ、俊傑位に在れば、則ち天下の士、皆悦んで其のに立たんことを願はん。市はして征せず、法してせざれば、則ち天下の商、皆悦んで其の市に蔵せんことを願はん。関は譏して征せざれば、則ち天下の旅、皆悦んで其の路に出でんことを願はん。耕す者は助して税せざれば、則ち天下の農、皆悦んで其の野に出でんことを願はん。にに布無ければ、則ち天下の民、皆悦んで之がと為ることを願はん。

  政治・市場・関所・農耕・住居それぞれに緩くせば王の民となることを願ふ

林和清『塚本邦雄の百首』

天使魚の瑠璃のしかばねさるにても彼奴より先に死んでたまるか 『詩歌變』

「かやつ」の訛った「きゃつ」軽いののしりの意を込めて言う。現実にはもうあまり使われなくなったが、歌の中でも使用例はほとんど見られない。だからこその衝撃があった。初出は「短歌研究」の歌人百人共詠のページだったと思う。当時から彼奴は誰か、と数人の歌人の名前が取りざたされ、昭和天皇説まで出された。それは十分計算されたことであり、エンゼルフィッシュの屍の形象とともに意識に深く食い込む。

しかしそれなら余計に、彼奴を使った他の歌は、歌集に入れるべきではなかった、と思うのだが。

いくさ勃るべくしてしづかうつせみの空心町も去年ほろびたり 『詩歌變』

塚本は生涯、地名の美に執着した。日本全国の興味惹かれる地名を詠んだ『新歌枕東西百景』(一九七八)という著書もある。その中で京都の地名「天使突抜」を「なぐはしき京見て死ねとあかねさす天子突抜春のあけぼの」と詠み有名になった。この歌の「空心町」は塚本にとってなじみ深い大坂の天満にかつて存在し、その名を愛していたのだろう。塚本が危惧するのは、由緒ある地名が消されてゆくことは権力による文化統制につながり、やがて戦争の兆しともなること。そしてそれはあくまで忍び寄ってくるものだということ。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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