10月13日(月)

涼しい。曇っていたが、晴れてくる。しかし、曇りらしい。

  妻はゴッホ展に上野まで私は家に浄土考ふ

  浄土を描く源信の言葉過剰にてときに辟易することもある

  『往生要集』には地獄なく浄土多い言葉過剰に褒めたまひけり

『孟子』公孫丑章句28-2 信に能く此の五者を行はば、則ちの民、之を仰ぐこと父母のけん。其の子弟を率ゐて、其の父母を攻むるは、生民ありてり以来、未だ能くす者有らざるなり。此の如くんば、則ち天下に敵無し。天下に敵無き者は、なり。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり」

  五か条をなせば天下無敵なり天命を行ない王たらざりき

林和清『塚本邦雄の百首』

枇杷の汁股閒にしたたれるものをわれのみは老いざらむ老いざらむ 『詩歌變』

『詩歌變』が上梓された年、塚本邦雄は六六歳。老いと死に向き合わねばならない齢であった。実際の塚本はこののち次々と歌集を出し、詩歌文学館賞を始めとする受賞を重ね、紫綬褒章、勲四等旭日小綬賞を受賞するなど、長い年月活躍し続けることになる。そこには相当な意志と覚悟があったにちがいない。

「老いざらむ」のリフレインには、反語的に老いを受け入れ、その上でいかに生きようとするかの指針が見える。「枇杷の汁」と「股閒」には性的なものも揺曳する。「土曜の父よ枇杷食ひ」とも遠く響きあう。

山川のたぎち終れるひとところ流雛かたまりて死にをる 『不變律』(一九八八)

塚本邦雄の意外な偏愛に雛人形があり、それは歌の中で常に不吉な存在として扱われている。「不運つづく隣家がこよひ窓あけて眞緋なまなまと耀る雛の段」や「雛壇の十二、三人くたびれて六波羅に流れ矢を持つごとし」などにも明らか。この歌では、人間の罪や汚れを背負って流された雛がたまって死んでいる。

『豹變』『詩歌變』と来て、この度は『不徧律』。

どんなに変をこころざそうと短歌の韻律は変わらぬ、と云う意味か。塚本は生涯をかけて夥しい数の歌を詠みつつ、その韻律の不可解さとの格闘を続けるのだ。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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