朝から雨が降ったり止んだり、今日一日こんなものらしい。
踏切を電車が通る紺色の相鉄線の長きが通る
踏切が赤き点滅を繰り返し行先不明の相鉄線が通る
踏切がしばし音立て自動車の行方をふさぐ通過するまで
『孟子』公孫丑章句29-3 是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端まり。
惻隠、羞悪、辞譲、是非、それぞれに仁・義・礼・智の端なり
林和清『塚本邦雄の百首』
生蚫咽喉すべりつつわれ生きて「あゝ、人目を避けた數々の寶石」 『波瀾』
「ああ、人目を避けた数々の宝石、――はや眼ある様々の花。」は、小林秀雄訳、アルチュール・ランボー『大洪水後』(一九七〇)の一節である。最近ではやや平明な訳で読まれていることも多いが、やはり塚本はこの訳の文学性高い日本語表現を好んでいたに違いない。
アワビの刺身を味わうのは日本的豪儀さ。極東の島国に生き、ランボーの絢爛たる詩句に瞑目する自分の存在。下の句丸々の引用が力強く響く。これを塚本の偏愛する詩句引用の極めつけとし、あえてほかの引用は控える方へ向かう、という選択肢はなかったのだろうか。
淡雪にこほりつつあり深夜こゑに出てその名うるはし大高源吾 『波瀾』
塚本短歌にはどれほどの人名が登場するのか。この『波瀾』だけを見ても、白楽天、サリンジャー、真野あずさ、ニーチェ、芭蕉、佐佐木幸綱など、六五人もの名が出てくる。空海忌、蕪村忌などの忌日や深草佐介、猪熊君など創作人名も頻出する。「冬瓜のあつものぬるし畫面にはどろりとシルヴスター・スタローン」など、嫌いであろう人物の名も詠まれている。
大高源吾は赤穂浪士の一人で文武両道の美丈夫。独身を通して切腹した。名も人も塚本好みだろう。同工異曲の歌も多々あるが、これが最上だと私は思う。