10月17日(金)

久しぶりの晴、明るい。

  ぽつ、ぽつと雨が雲よりこぼれをり太陽上るひむがし明し

  けやき樹のかなたたしかに日が上る而るに雨はぽっ、ぽつり

  降る雨に少しは濡れて冷たさありその冷たさは膚にここちよし

『孟子』公孫丑章句29-4 人の是の四端有るや、猶ほ其の四体有るがごときなり。是の四端有りて、而して自ら能はずと謂ふ者は、自ら賊ふ者なり。其の君能はずと謂ふ者は、其の君を賊ふ者なり。凡そ我に四端有る者、皆拡して之を充すことを知らん。火の始めて燃え、泉の始めて達するが若し。苟も能く之を充さば、以て四海を保んずるに足るも、苟も之を充さざれば、以て父母に事ふるに足らず」

  人間に四端あり仁義礼智この徳を理解できずば卑近なこともできず

林和清『塚本邦雄の百首』

春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状 『波瀾』

巻末に置かれたこの歌が巻き起こした衝撃は、今でもはっきりと覚えている。内容も当然だが「あっ」は新仮名の表記であり、絶対に正字正仮名の方針を曲げなかった塚本の新仮名へのニアミスだ、と騒がれた。

塚本没後に開催されたシンポジウムで、菱川善夫がこの歌の正しい読み方を伝授するとして「あっ」のところを会場に響き渡る大音声で会衆の度肝をぬいたことがあった。塚本が新仮名にニアミスしても表現したかった「あっ」を菱川は正しく理解したのだ。これは近い将来、必ず現実に発せられる「あっ」の声なのだ、と。

復活のだれからさきによみがへる光景か、否原爆圖なり 『黄金律』

この歌を総合誌の初出で読んだ時の衝撃も忘れられない。最後の審判の日にすべての死者がよみがえり、神の裁きを受ける。ミケランジェロの『最後の審判』の下方にも復活する死者たちが描かれていて、地獄行と裁かれたものは責め苦を受けることになる。

その光景を思い浮かべながら歌を読み進めると、一字あけがあり、「否原爆圖なり」と来る。おそらく塚本自身が宗教画と原爆図を取り違えたわけではない。こういう構成ににすることによって、最も悲惨に無慈悲に原爆図を読者に提示できる方法論を駆使したのだ。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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