10月22日(水)

朝から雨、雨、雨……

中沢新一『精霊の王』を、ようやくの事で読み終える。精霊は宿神であり、後ろ戸に潜むものであり、摩多羅神である。それは翁になって出てくる。柳田国男の『石神問答』におけるサカ・シャクの神と諏訪地方のシャクジとの関わり合いを周到に解き明かす。そして金春禅竹『明宿集』を中心に論じた神々と人間の精神史である。宿神は、私の卒業論文のテーマでもあった。

  この人はわが新歌集を深く読んでくれる贈呈すべし住所録の中

  この人はおざなりにしかわが歌集読まざりしものなれど寄贈す

  歌集を送る住所録の氏名・住所をたしかめて人の行方の興味深く

『孟子』公孫丑章句32-2 はを羞ぢず、を卑しとせず。進んで賢を隠さず、必ず其の道を以てす。せられて怨みず、してへず。故に曰く、『爾は爾為り、我は我為り。我がにすと雖も、爾焉んぞ能く我をさんや』と。故にとして之とにして自ら失はず。いて之を止むれば止まる。援いて之を止むれば止まる者は、是れ亦去るをしとせざるのみ」

  柳下恵はまるでどうでもよいかのやうに仕へたる止めてがあれば止まるのみ

林和清『塚本邦雄の百首』

獻身のきみに殉じて寐ねざりしそのあかつきの眼中の血 『獻身』

この歌集の末尾には「一九九四年六月二十九日永眠の畏友/政田岑生にこの一巻を獻ず」とだけ記され跋はない。そこに塚本が政田へ寄せる信頼と友情の深さ、そして身を切る喪失の悲しみが浮かび上がる。

菅原道真の漢詩「口に言ふこと能はず眼中の血」を基とする結句は、どんな言葉でも悼むことのできない念を表す激烈な挽歌として深く心に刺さる刃となる。

塚本は、自らを文学者として成功に導いてくれた政田を深く愛していたのだろう。通夜の席でただ一人ずっと側にいたいと言った顔を忘れることはできない。

うるはしき閒投詞たち あいや、うぬ、いざや、なむさん、すわ、されば、そよ 『獻身』                                  

かつて『感幻樂』の中で「鑚・蠍・旱・雁・掏摸・檻・囮・森・橇・二人・鎖・百合・塵」と、短歌の韻律に乗せた名詞一三語で暗示的な物語を作って見せた塚本邦雄。この度は間投詞。それも歌舞伎のセリフに出て来そうな大時代的な言葉ばかりである。思わず発する感嘆に、これほどのバリエーションを歴史的に有する日本語。そしてそれが市井の言葉であることにも改めて感心させられる。この時期の塚本が純然たる西欧美学よりも、江戸趣味的な「崩しの美」に魅かれていたことがよくわかる一首である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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