11月15日(土)

朝は曇りだったが、すぐに晴れてきた。気持ちのいい日だ。

  雨ふれば赤いパラソルの妻がゆく九階のベランダにその行方追ふ

  雨の昼は気圧が重く立ち上がりしもはればれとせず

  うづくまるごとくに部屋の中に坐す手足もなべて自由にならず

『孟子』公孫丑章句下43 孟子斉を去り、(ちう)に宿す。王の為に行を留めんと欲する者有り。坐して言ふ。応へず。(き)(よ)りて臥す。客悦ばずして曰く、「弟子(ていし)斉宿(さいしゅく)して後敢て言ふ。夫子(ぐわ)して聴かず。請ふ復び敢て(まみ)ゆること勿らん」と。曰く、「坐せよ。我明らかに子に(つ)げん。昔者(むかし)、魯の繆公(ぼくこう)は、子思(しし)(かたはら)に人無ければ、則ち子思を安んずる能はず。(せつ)(りう)申詳(しんしやう)は、繆公の側に人無ければ、則ち其の身を安んずる能はざりき。子長者の為に慮りて、子思に及ばず。子長者を絶つか。長者子を絶つか」と。

  賢者を遇する道の礼遇に及ばざる者の言やいかに

藤島秀憲『山崎方代の百首』

薮かげの小さきわが家に一枚のハガキがあした投げこまれたり 『右左口』

ポエムと現実に片足ずつ突っ込んでいると前の歌で書いたが、ユーモアと切なさ、ぬくもりと冷たさ、美しさと醜さ、聖と俗、生と死、愛と失望といったように、方代の歌は相反するものに片足ずつ突っ込んでいる。

ユーモアに両足を入れることはなく、必ず片足は切なさや怒りに踏み込んでいる。アンビバレントと言おうものなら「そうした難しいことじゃなくて、人間ってもともと複雑だからね」と方代に言われそう。

言葉の一つ一つは寂しい歌も、全体を通せば何だか笑ってしまう。悲劇を喜劇に仕立て替えてしまう。

手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る 『右左口』

今ではパックに入れて売られているが、昭和の中ごろまでは、鍋を持って買いに行くのが当たり前だった豆腐。方代は手のひらにのせている。器用だと感心するよりも、有り得ないと絶句してしまう。

だけど、普通では有り得ないことも、方代の手に掛かるとリアリティが発生する。「方代さんなら有り得るね」と思わせるキャラクターなのだ。

キャラクターが立ってくる短歌は実は少ない。理屈では納得できなくても、作者名で納得させてしまうキャラクターを方代は持っている。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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