朝は曇りだったが、すぐに晴れてきた。気持ちのいい日だ。
雨ふれば赤いパラソルの妻がゆく九階のベランダにその行方追ふ
雨の昼は気圧が重く立ち上がりしもはればれとせず
うづくまるごとくに部屋の中に坐す手足もなべて自由にならず
『孟子』公孫丑章句下43 孟子斉を去り、昼に宿す。王の為に行を留めんと欲する者有り。坐して言ふ。応へず。几に隠りて臥す。客悦ばずして曰く、「弟子斉宿して後敢て言ふ。夫子臥して聴かず。請ふ復び敢て見ゆること勿らん」と。曰く、「坐せよ。我明らかに子に語げん。昔者、魯の繆公は、子思の側に人無ければ、則ち子思を安んずる能はず。泄柳・申詳は、繆公の側に人無ければ、則ち其の身を安んずる能はざりき。子長者の為に慮りて、子思に及ばず。子長者を絶つか。長者子を絶つか」と。
賢者を遇する道の礼遇に及ばざる者の言やいかに
藤島秀憲『山崎方代の百首』
薮かげの小さきわが家に一枚のハガキがあした投げこまれたり 『右左口』
ポエムと現実に片足ずつ突っ込んでいると前の歌で書いたが、ユーモアと切なさ、ぬくもりと冷たさ、美しさと醜さ、聖と俗、生と死、愛と失望といったように、方代の歌は相反するものに片足ずつ突っ込んでいる。
ユーモアに両足を入れることはなく、必ず片足は切なさや怒りに踏み込んでいる。アンビバレントと言おうものなら「そうした難しいことじゃなくて、人間ってもともと複雑だからね」と方代に言われそう。
言葉の一つ一つは寂しい歌も、全体を通せば何だか笑ってしまう。悲劇を喜劇に仕立て替えてしまう。
手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る 『右左口』
今ではパックに入れて売られているが、昭和の中ごろまでは、鍋を持って買いに行くのが当たり前だった豆腐。方代は手のひらにのせている。器用だと感心するよりも、有り得ないと絶句してしまう。
だけど、普通では有り得ないことも、方代の手に掛かるとリアリティが発生する。「方代さんなら有り得るね」と思わせるキャラクターなのだ。
キャラクターが立ってくる短歌は実は少ない。理屈では納得できなくても、作者名で納得させてしまうキャラクターを方代は持っている。