11月19日(水)

晴れ。

  いつもの公園には老人チームが陣取って草刈りなどを行使してをる

  一人一人が鎌だったり熊手だったり籠だったりをそれぞれに持つ

  何人かで話をしつつ草むしる、草刈る、草をまとめて袋に

『孟子』公孫丑章句下46 孟子 斉を去りて(きう)に居る。公孫丑問うて曰く、「仕へて禄を受けざるは、古の道か」と。曰く、「非なり。(すう)に於て吾王に見ゆることを得、退いて去る志有り。変ずるを欲せず、故に受けざるなり。継いで師命有り、以て請ふ可からず。斉に久しきは、我が志に非ざるなり」と。

  斉王に見えてすぐに去らんとすされど戦乱に長く過ごせし

藤島秀憲『山崎方代の百首』

かたわらの土瓶もすでに眠りおる淋しいことにけじめはないよ 『右左口』

土瓶が続き、『青じその花』の引用も続く。

同居する土瓶については、方代自身も熱く語ってもらう方が良さそうだ。歌の秘密も少しずつ見えて来ることだし。

ここに私が坐っている。土瓶がそこに存在する。この離れがたい空間のもどかしい思慕に私は眼をつむる。

自分が現在、土瓶の前に坐っているということで、それを意識しない時間は無に等しいのだ。私の歌の調は、そんなもどかしさの中からほそぼそと生まれてくるような気がしてならない。

涙ぐましいことなりしかなわが手よりすべり落ちたる皿割れにけり 『右左口』

口の欠けた土瓶は使い続けることができても、割れてしまった皿はどうにもならない。もう取り戻せない。

すべり落ちるという一瞬の出来事で、大事なものが失われてしまう。皿は一例に過ぎず、人と人との交わりにも当てはまる。一瞬が永遠に変わる。

あるいは「すべり落ちた」一瞬とは、右眼に砲弾を受けた瞬間かも知れない。あの時に自分の一生は割れてしまった。いやいやもっと以前、母より生れ出た瞬間が「すべり落ちた」ときではないか。生れて来たことそのものが「涙ぐましいこと」だったのか。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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