12月15日(月)

晴れ。寒い。

  西宮神社にゑびすの神祀るその当日にわれら来しかな

  縁日の露店の店のあまた出て賑はふ町に心楽しく

  焼津駅から送迎車に道を上りゆく山の高きに一軒の宿

『孟子』縢文公章句下52  陳代曰く、「諸侯を見ざるは、(ほとん)ど小なるが若く然り。今、一たび之を見ば、大は則ち以て王たらしめ、小は則ち以て覇たらしめん。且つ志に曰く、『尺を枉げて尋を直くす』と。宜ど為す可きが若し」と。孟子曰く、「昔、斉の景公(でん)す。虞人(ぐじん)を招くに(せい)を以てす。至らず。将に之を殺さんとす。『志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず。勇子は其の(かうべ)を喪ふを忘れず』と。孔子(なに)をか取れる。其の招きに非ざれば往かざるを取れるなり。其の招きを待たずして往くが如きは何ぞや。且つ夫れ尺を枉げて尋を直くすとは、利を以て言ふなり。如し利を以てせば、則ち尋を枉げて尺を直して利あらば、亦為す可きか。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

暮れに出た友の歌集はすばらしい夏の雀は体がだるい 『迦葉』

友と聞いて思い出すのは岡部桂一郎と玉城徹だが、ここでは「とある友」と読むのが良さそう。あまりのすばらしさにショックを受けて、この年の前半を過ごしたのだろう。体がだるい雀は方代だ。

と読んで来て、それで良いのかと疑う。本当に「すばらしい」と思っているのか。下句は」がっかりした思いを表わしているのではないか。そもそも「友」も疑わしい。

「とある友」ではなく「とある大家」の歌集ではないのか?こんな詮索はほどほどにしたいのだが、方代が残していった謎は数限りない。

かろうじて保つ視力はかぐろくて低い鴨居のようにしんどい 『迦葉』

実感のある比喩、手触りのある比喩、という言い方をする。だとすればこの比喩は「体が覚えている比喩」とでも言おうか。低い鴨居を潜るとき、頭をぶつけないかと恐々と体を丸める感覚が蘇って来る。

が、しかしだ。その程度のしんどさなのかと首を傾げてしまう。かろうじて保っているのだから、もっともっとしんどいでしょうと思う。けれどもそこは方代のこと。「私の苦労なんぞ軽く受け流していただいて結構なのですよ」と言いたげに、左程しんどくないことに喩える。比喩の力を知っていた人だから、なせる伎。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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