晴れ。寒い。
西宮神社にゑびすの神祀るその当日にわれら来しかな
縁日の露店の店のあまた出て賑はふ町に心楽しく
焼津駅から送迎車に道を上りゆく山の高きに一軒の宿
『孟子』縢文公章句下52 陳代曰く、「諸侯を見ざるは、宜ど小なるが若く然り。今、一たび之を見ば、大は則ち以て王たらしめ、小は則ち以て覇たらしめん。且つ志に曰く、『尺を枉げて尋を直くす』と。宜ど為す可きが若し」と。孟子曰く、「昔、斉の景公田す。虞人を招くに旌を以てす。至らず。将に之を殺さんとす。『志士は溝壑に在るを忘れず。勇子は其の元を喪ふを忘れず』と。孔子奚をか取れる。其の招きに非ざれば往かざるを取れるなり。其の招きを待たずして往くが如きは何ぞや。且つ夫れ尺を枉げて尋を直くすとは、利を以て言ふなり。如し利を以てせば、則ち尋を枉げて尺を直して利あらば、亦為す可きか。
藤島秀憲『山崎方代の百首』
暮れに出た友の歌集はすばらしい夏の雀は体がだるい 『迦葉』
友と聞いて思い出すのは岡部桂一郎と玉城徹だが、ここでは「とある友」と読むのが良さそう。あまりのすばらしさにショックを受けて、この年の前半を過ごしたのだろう。体がだるい雀は方代だ。
と読んで来て、それで良いのかと疑う。本当に「すばらしい」と思っているのか。下句は」がっかりした思いを表わしているのではないか。そもそも「友」も疑わしい。
「とある友」ではなく「とある大家」の歌集ではないのか?こんな詮索はほどほどにしたいのだが、方代が残していった謎は数限りない。
かろうじて保つ視力はかぐろくて低い鴨居のようにしんどい 『迦葉』
実感のある比喩、手触りのある比喩、という言い方をする。だとすればこの比喩は「体が覚えている比喩」とでも言おうか。低い鴨居を潜るとき、頭をぶつけないかと恐々と体を丸める感覚が蘇って来る。
が、しかしだ。その程度のしんどさなのかと首を傾げてしまう。かろうじて保っているのだから、もっともっとしんどいでしょうと思う。けれどもそこは方代のこと。「私の苦労なんぞ軽く受け流していただいて結構なのですよ」と言いたげに、左程しんどくないことに喩える。比喩の力を知っていた人だから、なせる伎。