2024年3月28日(木)

曇り。寒い。夕方、雨がくるらしい。

  いつまでも余寒のごとき日がつづく三月下旬けふも晴れざる

  水仕事にトイレが近しこれもまた老いの証しか致し方なし

  風呂上がりのメガネが曇る鏡のうち輪郭暈けし異形のすがた

『論語』雍也一三 孔子が子夏に言った。おまえは「君子」としての「儒」となりなさい。「小人の儒と為ること無かれ。」単に名誉を求める学者ではなく、わが身を修養する学者になれということだ。

  子夏にいふ汝よ君子の儒と為れよ誤まっても小人の儒に為るなかれ

『正徹物語』92 定家の書(「詠歌大概」)に「歌に師匠なし。古きを以て師とす」とあり、「心を古風に染めて、詞を先達にならはば、誰か歌詠まざらん」と言った。

  心を古風に染めて歌ふべし古人に詞よく倣うふべし

『伊勢物語』四十三段 賀陽(かや)親王(みこ)(桓武天皇第7皇子)という親王がいた。親王は、一人の女性を寵愛していた。目をかけ、大事にしていたが、その女に、ある男が色めかしいそぶりを見せた。すると、また違う男がその話を聞きつけた。男は男で、女と深い仲にあるのは、自分だけだと思っていたのだ。男は、ほととぎすの絵とともに文をやった。   
・ほととぎす汝が鳴く里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから

すると女は、男の機嫌をとり、こう詠んだ。
・名のみ立つしでの田をさは今朝ぞ鳴く庵あまたとうとまれぬれば

時は五月、男は返した。
・庵多きしでの田をさはなほ頼むわがすむ里に声し絶えずは

男は、女の気持ちを取り返すことが出来たのでしょうか。それともこんな多情な女を振ってしまったのでしょうか。私なら後者を選びますが、どうもそうではないような。それが「あはれ」なのでしょうか。

2024年3月27日(水)

ようやく朝から晴れである。やはり晴れているだけで、明るい気持ちになる。リハビリ、塗絵の課題あり。

  キッチンにビニール手袋が生きてゐるまるで人の手うごきはじめる

  不可思議のキッチンの棚夜になれば扉が開き皿、碗とびだす

  夜に入れば皿鳴る、碗鳴る、スプーンが叩き叩いて大騒ぎなり

『論語』雍也一二 冉求が言う。先生の道を学ぶことを喜ばぬわけではない。しかし力が足りない。そういうと孔子が「力の足りないものは中途でやめることになるが、今おもえは自分から見切りをつけている。

  なかなかに孔子の教へは厳しくて冉求おまへはかつてに(かぎ)

『正徹物語』91 為氏の、
・人とはば見ずとやいはむ玉津嶋かすむ入江の春のあけぼの 続後撰集41

を、父の為家が勅撰集に入れようとして、二句は「見つとやいはん」としていれるがよいだろうと言われた。為氏は父子のあいだであるから、御意のままにと思われたが、しかし「見ずやといはん」も一興の体である。こう言って問題ないのではということになり、続後撰集に採られた。この話によって、勅撰集に採られる和歌のスタイルを知ることが出来よう。この歌は玉津嶋に面と向かっていて、霞が立ち込める曙の風景を、人が尋ねたら「見た」と言おうか、「見ない」と言おうか、ということ。どちらでも同じであるが、それでも「見た」とするのは素朴実直なスタイルである。

  勅撰に選ばるるのは実直か虚構かあれど実を重んず

『伊勢物語』四十二段 男、色好みと知る知る、女と情をかわした。多情を恨んでもいいのに、男は憎まなかった。男は女のもとに通い詰めた。それでも男は女の心変わり恐れた。二、三日ほど、行けない日があった。男は、女に詠んだ。
・出でて来し跡だにいまだ変はらじを誰が通ひ路と今はなるらむ

女をうたがって、男はついこんなふうに詠んだ。

なんとなく、なさけない男に思える。

2024年3月26日(火)

今日も朝から雨、次第に強く降る。

昨夜、徳田秋聲『あらくれ・新世帯』を読み終える。このところ秋聲が気になっていて、とりあえず岩波文庫のこの一冊を読んだ。「あらくれ」はお島が主人公、男をたびたび変えて東京と山国をいったりきたり、よく働く。だから女にして「あらくれ」なのか。また「新世帯」、「あらじょたい」と読むは、新吉とお作、そこにお国がからむ。いづれも、しばしばその自然描写に驚く。そして、そこが魅力でもある。一節だけ上げておく。「その晩は月はどこの森の(は)にも見えなかった。深く澄みわたった大気の底に、(ぎん)梨地(なしじ)のような星影がちらちらして、水藻のような蒼い(も)(や)が、一面に地上から這いのぼっていた。」随所に優れた描写があり、それぞれの人物にも生彩がある。

徳田秋聲の自然描写を愉しみて「あらくれ」「新世帯」読み終えたりき

  朝の雨に寂しく鳴くはひよどりの一羽雌呼びいくたびも鳴く

  雨に打たれ白き木蓮散りはじむ地に無惨なり(はなびら)落とす

『論語』雍也一一 孔子が言った。「賢なるかなや回。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかなや回。」

  顔回を褒めて孔子は二度もいふ「賢なるかなや回」「賢なるかなや回」

『正徹物語』90 「いづくにか今夜はさねん」といっても、少しは寝ているのである。
・いづくにかこよひはさねんいなみのの浅茅がうへも雪降りにけり 新後拾遺924

「さ」は接頭語。

  いづくにか今宵はさねん紀の国をめぐりて夜の宿のあてなし

『伊勢物語』四十一段 昔、あねといもうとがいた。一人は身分が低く貧しい夫、もう一人は身分の高い夫をもっていた。身分の低い夫をもった女が、年の暮れ、夫の式服をみずから洗い張りをした。そのような仕事には慣れていない。式服の肩の部分を破いてしまった。女は泣くばかりである。男はあわれに思って、女の夫の官位にあう美しい緑色の式服をさがし、歌を添えておくった。
・紫の色こき時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける

この歌は、
・紫の一本ゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る
を踏まえて詠んだに違いない。

2024年3月25日(月)

朝から細かな雨が降っている。明るくならない雲。そしてしとしと雨。止むようで止まない。

昨夜、服部幸雄『宿神論』、著者歿後の出版だが、その参考文献目録に一冊だけ小説が掲載されている。皆川博子「木蓮寺」(「小説新潮」1991年5月号)。「『後戸』の空間を題材に扱った小説で、1998・12『朱紋様』(朝日新聞社)に収録された」と注記がある、その「木蓮寺」を読んだ。私の卒業論文は「宿神考」と題するレポートのようなものであったので、服部幸雄の論文は大きな参考になった。卒業論文は、ほとんどそれらの文献の焼き直しであった。その参考文献に載った小説である。華麗奇抜な11の短編が蒐められた中の一篇である。後ろ戸の神は宿神、摩多羅神という。寺院の内陣の後ろ側にその神は、ひっそり祀られている。中世芸能民の信仰する神だが、その空間の特色を、この小説はよく捉えている。詳しくは両書を読んでもらいたいが、最後に古庫裏婆がいう「生きとるのやら死んどるのやら、分からぬものが漂い棲む、ここは後戸や」「やさしい寂しいものが棲むところや。そう聞こえた」とある。後戸の神を明らかにした服部幸雄も嬉しかったに違いない。もちろん私にも。

その後、中世芸能民の信仰という問題から離れてしまったので、いっそう懐かしい思いがある。

  探しまはりやうやく行きつくゴールデン街ギターの音に軍歌を歌ふ

  しんみりとしづかに飲むはナベサンか終電すぎても酒飲むをやめず

  新宿ゴールデン街に遊べるはむかしむかしのことにしあらむ

『論語』雍也一〇 伯牛(孔子の門人、冉耕)が病気になった。孔子が見舞って、窓越しに手を取った。「これを亡ぼせり、命なるかな。斯の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること」。ハンセン氏病らしい。

  伯牛の疾に苦しむを見舞ひする孔子の(まなこ)に潤みなきかは

『正徹物語』89 和歌の声点の説には、家隆の説だと執着する人もいるが、私どもは、俊成・定家の御。子左家の説のほかは一切知らない。たとえば「やまとうた」と発音するとき、定家は「大和紙ではない」と述べた。「やまとかみ」は清音で上声。「やまとうた」は、平声で発音すべき。

  和歌には(しやう)があるといふ俊成・定家に伝はる(しやう)なり

『伊勢物語』四十段 若い男がいた。女に恋した。悪くない女であった。されど男の親は、女への思いが募ることを案じ、女をよそへ追いやろうとした。とはいえ、まだ手をくだしてはいない。男は親がかりの身で、気概がない。女の方も、身分が低いのであらがえない。男の思いはいやまさる。親はいそいで女を追いだしにかかった。男は涙にかきくれた。しかし、女を引き留めるすべはない。とうとう女は連れ去られた。男は泣きながら詠んだ。
・出でて往なば誰か別れのかたからむありしにまさる今日は悲しも

男は気を失った。親はあわてた。こんなにも息たえだえなさまになってしまうとは、思ってもみなかった。神仏に祈る。日暮れころ気を失い、次の日の夜、ようやく男は息をふきかえした。昔の若者は、このように一途だった。今どきの、わけ知りの大人は、こんな恋はできないだろう。

その後、女は帰ってきたのだろうか。気になるが、それは書かれていない。

2024年3月24日(日)

なんとなく曇り空。あいかわらず寒い。もう三月下旬。染井吉野の開花情報も高知だけだ。

  どことなく寂しき思ひに湯に浸かるああとため息この日々の果て

  湯気にけぶる鏡に映るひょっとこづらひょうげて踊るわれならなくに

  街の灯は遠くに見えてまだ明かる終夜灯るか海老名の町は

『論語』雍也九 季氏が(びん)氏騫(しけん)(孔子の門人。子騫)を費の町の宰にしようとした。閔子騫は言った、「善く我が為に辞せよ。もしまた私に勧める者があれば、私はきっと汶水のほとりに行くことでしょう。

  閔子騫、季氏に使はれること良しとせず汶のほとりへ逃れるべしや

閔子騫はなかなか潔い人だ。

『正徹物語』88 定家の「忘るる恋」、
・忘れぬやさは忘れける我心夢になせとぞいひてわかれし

この歌も、すぐには理解できない。勝定院(足利義持)の時、正徹と孝雲にこの歌について質問があった。二人の趣旨は違った。その頃洛中で評判したのは、私が、やはり正しい。恋人と約束を交わしても、現実と思えないまま「無かったことにしましょう」と言ったことを単に「忘れぬ」のでは、すっかり相手を忘れたことになる。そうではなくて「無かったことにして忘れて下さい」と自分から言って別れたのに、そのことを忘れてしまった。だから相手のことは決して忘れられない。こんなふうに定家の歌は題に心底共感し、その中に乗り移って詠んだ。定家の「恋の歌」に並ぶものはいない、家隆でも及ばない。
・さても猶とはれぬ秋のゆふは山雲吹く風も峰に見ゆらむ 新古今1361
・思ひいでよたがかねごとの末ならむ昨日の雲の跡の山風 新古今1294
などが匹敵するでしょう。孝雲が言ったのは、「忘れぬや」とは、相手に対して「忘れたのか」と尋ねたという意である。

定家の
・やすらひに出でにしままの月の影我涙のみ袖にまてども 拾遺愚草876
・白妙の袖の別れに露おちて身にしむ色に秋風ぞ吹く 新古今1336

「極まれる幽玄の体なり。」これらも簡単には理解できない歌である。

今回はなかなか難しい。だいたい幽玄など現代の短歌にはない。

  春の盆の日雨しとど寒きがなかをおもひしやきみ

『伊勢物語』三十九段 西院の帝(淳和天皇)には、娘があった。皇女崇子(たかしいこ)という。

その崇子が十九で亡くなった。その葬送の夜。西院の隣に住んでいた男が、葬送を見送ろうと、女車に、女と同乗した。皇女の柩車はなかなか出ない。そんなとき、色好みで知られた源至も亡き皇女の見送りにきていた。至は、女車に男が同乗していると思わず、近づいた。至は、たわむれに口説きはじめた。やがて蛍をつかまえ、女車へ放った。乗っていた女は、蛍の灯りに顔が見られてしまうと恐れた。男は、女にかわって詠んだ。
・出でて(い)なば限りなるべみ(とも)(し)(け)ち年(へ)ぬるかと泣く声を聞け

至は、返した。
・いとあはれ泣くぞ聞こゆる灯火消ち消ゆるものとも我は知らずな

色好みの至にしては、並みの歌だろう。源至は源順の祖父にあたり、亡くなった皇女の血筋の者である。至の行いは、皇女にとって不本意なものであった。

源至よ、大丈夫か。

2024年3月23日(土)

朝は降っていなかった。10時前には、小さな雨。寒い。雨が降ると、「君が心をくれたから」を思い出しては、目頭が熱くなる。泣けるドラマであった。

  雨ちゃんと太陽くんの物語、奇蹟に涙したたりやまず

  雨ちゃんが五感を失ふ展開の泣けてならねば録画を止める

  永野芽衣の笑顔がなんともいへずよし笑顔みたくてテーマ曲聴く

『論語』雍也八 季康子が問うた、仲由(子路)は政治をとらせることができますか。」

孔子の答え、「由は果断です。政治をとるくらい何でもない」。「では賜(子貢)はどうですか。」「賜は何事でも通達する。政治をとるくらい何でもない」。求(冉求)はどうでしょう。「求は才能豊か。政治をとるくらい何でもない。」

弟子の人物評価でしょうか。子路、子貢、冉求は高評価である。

  子路も子貢も冉求も政治を執れる孔子答へき

『正徹物語』87 「忘るる恋」の題で、こう詠んだ。
・うきものと思ふ心の跡もなく我を忘れよ君は恨みじ

「忘るる恋」は、何度でも相手が自分を忘れること。相手が何を忘れるか。交した約束を忘れるのである。私を嫌い、嫌だと思うことは忘れない。この私を憎い、嫌だと思う気持ちもきれいに忘れてしまえば、未聞不見の人のようだ。そんな風に契りを忘れるとというなら、全て忘れてしまえ。その時は決してあなたを恨むまい。私を嫌って避けることは、忘れてくれないことが遺恨である訳なのだ。

  忘れられぬ恋あるべしや思ひだすことのくさぐさに心を残す

『伊勢物語』三十八段 紀有常のもとを、男は訪ねた。有常は外出し、あちこち歩きまわり、遅くまで帰ってこなかった。有常に、男は詠んだ。
・君により思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋といふらむ

有常の返歌。
・ならはねば世の人ごとに何をかも恋とはいふと問ひし我しも

遅くなった侘びはないのかな。

2024年3月22日(金)

今日も晴れているが、寒い。リハビリ。

木村朗子、さえこと読むらしい。『妄想古典教室』(青土社)を読む。楽しかった。この人の本は、最近『百首で読む「源氏物語」』を読んだところだが、これも楽しく、後日ここにも登場することになるはずだ。「あとがき」にこうある。「むかしむかし、私の学生時代には品川駅から出る大垣行の夜行列車があった。大垣から米原に出て、さらに乗り継いで奈良に着く。(略)寺社をめぐって仏像、神像を見て歩いた」という回顧からはじまる。木村さんは1968年生まれというから、私より若い人だが、私も同様の体験をもつ。大垣行の夜行普通列車を利用して、何度大和へ行ったものか。この列車がなければ私の大和狂いはできなかっただろう。大垣駅での洗面の時を今でも思い出す。長くなったが、この本を読んで、あれこれの神社、寺院。あれこれの絵巻、あるいはピット・リヴァース博物館の魔女入りのボトルなどを見て、妄想したくなった。とりあえずわが家からそう遠くない江ノ島の弁財天像に逢いにいこうか。

  日なたにはモクレンの花春の色日翳りの木はいまだ冬の木

  朝から明けのカラスの濁りごゑ遠近に鳴く町ひらけゆく

  モクレンの蕾が開きつぼ型のかたちにひらくいまだ寒き日

『論語』雍也七 孔子が言った。回は三月も心を仁の徳から離さない。他の者なら一日か一月のあいだだろう。」

  顔回と其の余の者をくらぶれば心を仁から離すことなし

『正徹物語』86 為継(法性寺と号した)は、隆信(定家の異父兄。似絵の名手)の子孫。信実は隆信の子である。信実は人麻呂を画いた。絵師ではないが、信実以後代々家風を伝えて絵をよく画いた。法性寺の現在の当主為季は歌も詠まず、絵も画かない人だ。

  人麻呂を絵に画きし藤原信実を褒めたるか当代のだめさをいへり

『伊勢物語』三十七段 男が「色好みなりける女にあへりけり。」女の心変わりを不安に思い、詠んだ。
・我ならで下紐解くな朝顔の夕かげまたぬ花にはありとも

女が返した。
・二人して結びし紐をひとりしてあひ見るまでは解かじとぞ思ふ

なんだか直接的過ぎるようなやりとりに思えますが。