8月5日(火)

今日は暑いらしい。海老名38℃の予定だ。

  がの蓋に映りたりああこの時を見張られてゐる

  逼塞感ただごとならず隠りゐて便器にしばし便ながしをり

  には神様がゐる柱背後に覗く

『孟子』梁恵王章句上6-2 対へて曰く、『天下せざる莫きなり。王夫の苗を知るか。七八月の間、旱すれば則ち苗れん。天油然として雲をし、沛然として雨を下さば、則ち苗浡然として之にきん。其れ是の如くなれば、か能く之をめん。今夫れ天かの人牧、未だ人を殺すことなきをまざる者有らざるなり。如し人を殺すこと嗜まざる者有らば、則ち天下の民、皆領を引いて之を望まん。誠にの如くならば、民の之に帰すること、ほ水のきに就きて沛然たるがごとし。誰か能く之をてめん』と。

  王たれば民のことを考えへるべしされば天下与せざるなし

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 大伯皇女

二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (同・一〇六)

二首目の歌である。ふたりともどもに行ってもさびしくてなかなか通り過ぎにくい秋の山を、いまごろ君はどんな思いをしながら一人越えていることであろうか、と大和へ帰る皇子をしのんでいる。秋の山はさびしいものだ。そのさびしさとともに道のけわしさをも「行き過ぎがたき」にそれとなくいいふくめてあるようだ。大事を企てている皇子の心中をおしはかり、心配しているおもむきは前の歌以上に切々として感じられる。これも恋愛情調の強く感じられる歌で、現代式に評するならばあまい歌ということになるのであろうが、さすがは古代である。まっ正直にたがいを信頼しあっている姉弟の心は、そういう語をさしはさむすきをあたえない。単純だけれど心がみちみちている。(略)皇女の挽歌は読むものの涙をしぼらせる。この二つの歌はその」悲劇の序をなすものである。

8月4日(月)

今日も特別に暑い。暑い。

  もつとも身近にある死の世界日々干乾びてみみず死す

  みみずの屍踏まぬやうにと歩くわれ右によりまた左に傾く

  この世からあの世へ渡るところには蚯蚓の死骸あまた干乾ぶ

『孟子』梁恵王章句上6 孟子 梁の襄王にゆ。出でて人にげて曰く、「之に望むに人君に似ず。之に就くに畏るる所を見ず。卒然として問ふて曰く、『天下にか定まらん』と。吾対へて曰く、『一に定まらん』と。『か能く之を一にせん』と。対へて曰く、『人を殺すを嗜まざる者、能く之を一にせん』と。『孰か能く之に与せん』と。

  梁の襄王が孟子に聞けり。退出して後にいふ君子としてはありがたからず

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 大伯皇女

わが背子を大和へ遣ると小夜深けてあかとき露にわが立ち濡れし (万葉集巻二・一〇五)

「大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の御歌二首」と詞書ある一首目の歌。大津皇子は天武天皇の第三皇子、母は天智天皇の皇女の大田皇女(持統天皇の姉)。幼少より好学博覧、才藻を謳われる。雄弁で度量が大きく、体軀堂々として多力、武技をよくして抜群の大器であった。天智天皇にとくに愛され、天武十二年には朝政をきくほどだったが、新羅の僧行心が骨相を見て、臣下にとどまっていたのでは身辺が危いといったので反逆を企てる。持統天皇の朱鳥元年十月二日発覚、翌日死を賜った。天武天皇崩御後わずか二十日余であった。この反逆事件は皇子をおとしいれるために仕組まれた陰謀であったともいわれる。大伯皇女は大津の同母姉。(略)十三歳で伊勢の斎宮となったが、皇子より二つ年上、この時は二十六歳である。

この詞書の「大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下がり」がやはりただ事でない。天武天皇崩御のあと、皇位をねらった皇子は伊勢神宮に神意をただす必要があったからだろう。仁徳天皇の兄妹の隼別と女鳥王も場合も同じであった。(略)姉の大伯皇女はそれをうちあけられて、さぞかし驚いたことと思われる。」これはその皇子の大和へ帰るのを送る歌である。(略)わが弟の君を大和へ帰らせようとして夜のふけるのを見送っていて暁の露に濡れた、というのである。「あかとき」は、(略)いずれにしても夜ふけから夜明けへかけて、心配そうに見送っていたのであろう。(略)早く帰るようにと心をつかっているおもむきが感じられる。けれどもこの歌は、反逆事件など考えずに読むと、きょうだい愛というか、それ以上に恋愛情調に似たようなものが感じられる。それがこの歌の心である。

8月3日(日)

花火も昨夜無事に終え、今日また暑い。

マンションの中庭にみみずが干乾びて死んでいる。

  幾日も日にさらさるるみみずなり乾び干乾び一寸ほどに

  この暑さ夜間這ひ廻るみみずかな朝には干乾び死にゆくものを

  みみずに幸せなどいふものあるか日に照らされて死にゆくものに

『孟子』梁恵王章句上5-3 彼は其の民の時を奪ひ、して以て其の父母を養ふことを得ざらしむ。父母し、兄弟妻子離散す。彼は其の民をす。王往きて之を征せば、夫れ誰か王と敵せん。故に曰く、「仁者は敵無し」と。王請ふ疑ふこと勿れ」と。

「仁者は敵無し」梁の恵王よ孟子を疑ふことぞなからん 

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 源実朝

萩の花くれぐれ迄もありつるが月出でて見るになきがはかなさ (同)

日の暮れるまで萩の花は美しかったが、月の光ではそれが見えなくなったというだけの歌である。何でもない歌のようだが、物をよく見ている。この時代としては新しい見方である。現代人に通じる詩情である。この歌を見て、なるほどそうだったと気づく人も多いのいいではないか。しかしこの歌ではそれをはかないと観じている。そこにその時代の無常感が出ているので、実朝といえども時代の子であるといわれたりする。(略)これは表にあらわれただけを美しとし、はかなしとしてその詩情に溶け込めばよい。この歌を好きだといったのは小林秀雄であった。(略)畢竟は実朝調といってよいのである。(略)

8月2日(土)

台風の被害はほとんどなかった。朝から暑いのだ。

  反転し腹をさらして乾涸ぶるヤモリの子なり街上に死す

  乾きたるヤモリの子死ぬとき何思ふ絶望の声あげざるものか

  乾涸ぶる蚯蚓の隣に死したるかヤモリの子ああ何ともせんなき

『孟子』梁恵王章句上5-2 孟子対へて曰く、「地、方百里ならば以て王たる可し。王如し仁政を民に施し、刑罰を省き、を薄くし、深く耕しめらしめ、壮者は暇日を以て其の孝悌忠信を修め、入りては以て其の父兄に事へ、出でては以て其の長上み事へば、を制して以てのをたしむ可し。

  孟子曰く地、方千里ならば王たるべしされど大国なれば仁政を敷け

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 源 実朝

時によりすぐれば民のなげきなり八代竜王雨やめたまへ (金槐集)

「建暦元年七月洪水漫天、土民愁嘆せむことを思ひて一人奉向本尊、聊致祈念」との詞書がある。それは相模の大山の阿夫利神社に祈念した(略)八代竜王は仏教では天象風雨を支配する神で、難蛇、跋難蛇、沙迦羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の八王をいう。建暦元年七月とあるだけで何日であったかはわかりかねるが、新暦では八月中旬ごろから九月中旬ごろまでということだから、台風期である。洪水漫天は豪雨の降りつづいているさまであり、土民愁嘆は、百姓のなげきをいっているので、その生活をうれえている。その秋の稔りを心配しているようだ。実朝は将軍である。鎌倉幕府の征夷大将軍なのだから、その立場からすると民衆ははすべて民であり、また土民であったのだろうが、(略)歌の中ではそれを民といっている。

この歌は三句切れになっている。この「なげきなり」の「なり」が心深く感じられる。ひたすらに祈願している心の声である。(略)こういう口つきはやはり将軍である。一心をこめて神に祈りながら、しかも神にむかって命令しているかのような口吻である。(略)歌を見ただけでわかる。どうして大した傑物である。この歌はむろん実朝の代表作の一つだが、将軍としての貫禄は十分である。同時にそういう条件を抜きにしても、やはり希有の傑作である。

2025年8月1日(金)

早いもので、もう八月です。

  朝毎に飲むトマトジュース一杯を卓にこぼせり情けなきこと

  歳とれば手もと不如意もあることと布巾にふき取る妻の笑顔

  いやいや手もと不如意に気をつける六十九歳なんとかせんか

『孟子』梁恵王章句上5 梁の恵王曰く、「晋国は天下より強きは莫きは、のしれ所なり。寡人の身に及び、東は斉に敗られ、長子死す。西は地を秦に喪ふこと七百里。南は楚に辱められる。寡人之を恥づ。願はくは死する者のまでに一たび之をがん。之をせば則ち可ならん」と。

  梁の恵王が孟子にきくわが世になりて負けつづけ如何にせんとや一死すすげり

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 落合直文

父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり (同)

直文三十九歳、「明治三十二年の春、病にふしてよめる歌どもの中に」の詞書ある十九首中の一首である。

わが歌をかきてと人に乞ふばかり病おもくもなりにけるかな

寝もやらでしはぶくおのがしはぶきにいくたび妻の目をさますらむ

このすぐ前に並ぶ佳作だが、なおこの歌の方がすぐれている。直文の代表作として聞こえ高いが、これを見るとたれでも島木赤彦の歌を思い出すはずだ。

隣室に書よむ子らの声きけば心にしみて生きたかりけり

赤彦の代表作の一つだが、どちらがすぐれているか今はいうまい。しかし「死なれざりけり」というも「生きたかりけり」というのも人間真実の声である。歌風や時代を越えてともに読むものの心をうつ。(略)だからといって直文を軽んじることは誤っていよう。一口に古いというものも多いようだが、いうはたやすかろう。それでも直文は明治の大先進だった。どうしてなかなか手ごわいものも蔵しているのである。

7月31日(木)

今日も暑い。七月も終わりだ。

  絶壁にたたずむはわれ今にも跳びこむごとき痩せたるすがた

  どこかに自殺願望があるのだらうかいやいや年経てもわれにはあらず

  明瞭快活でいつまでもいたしと思ふこの暑さにも

『孟子』梁恵王章句4-3 仲尼曰く、「始めて傭を作る者は、其れ後無からんか」と。

其の、人に象りて之を用ふるが為なり。之れ如何ぞ、其れ斯の民をして飢ゑて死なしめにや」と。

  孔子曰くはじめて傭を作りしものそれ子孫無からんや

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 落合直文

萩寺の萩おもしろし露の身のおくつきどころここと定めむ (萩之家歌集)

萩には露が置く。露ははかないもの。はかないのは人の身であるから「露の身」といい、その縁語から露の「置く」を掛詞として「おくつきどころ」といった。古い技巧のようだが、さすがである。それがそれと目立たないのも、またいやみを感じさせないのも、清く歌われている心のゆえばかりではない。やはりずいぶんと苦労し、推敲を重ねていたのである。

(略)直文はこの歌に自信があったのか、ゝ〇〇の印を付している。

(略)この歌は年譜によると「明治二十六年(三十三歳)十月、弟鮎貝槐園、門主与謝野寛と共に、江東萩寺に萩を賞す」とあってこの歌が見えるが、のちに改作して寛の『明星』誌上に発表された。(略)萩寺の萩は有名である。それで萩の好きな直文も見に行ったというわけだが、この萩の歌はむろんすぐれているから直文の代表作には違いない。(略)萩が好きだっただけに萩の佳作が多い。

このままにながく眠らば墓の上にかならず植ゑよ萩のひとむら

庭ぎよめはやはてにけり糸萩をむすびあげたるその縄をとけ

あたらしくたてし書院の窓の下にわれまづ植ゑむ萩のひとむらその歌の願いどおり、青山墓地の直文の墓前には萩が植えてあるそうである。