2025年4月27日(日)

まあ、曇りつづきだが春らし日だ。しかし体調がすこぶる悪い。一日寝て過ごす。

海音寺潮五郎『武将列伝 秀吉の四桀』を読了。石田三成、蒲生氏郷、加藤清正、伊達政宗の、いわば史伝だが、それぞれに好き嫌いがあるらしく石田三成にきびしく、伊達政宗にももんくがありそうだ。蒲生氏郷と加藤清正は筆が走っているように思える。いずれも秀吉に臣従した武将であり、おもしろかった。伊達政宗には、漢文一編、漢詩三十首、和文二編、和歌二百奈々十五首がのこっているという。その中から後水野尾天皇勅撰の「集外歌仙」に採られたという和歌を一首、

  鎖さずとも誰かは越えん逢坂の関の戸埋む夜半の白雪

  初燕けふ飛びたるを見たりけり卯月終はりにこの町に来る

  いづこかに燕の巣があり子つばめの餌を求めて鳴く声聞こゆ

  九階のベランダあたりをひるがへりまたひるがへり空旋回す

『論語』微子一一 周に八士あり、伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随と季騧。

周の国には八士あり伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随と季騧

前川佐美雄『秀歌12月』 二月 大伴旅人

淡雪のほどろほどろに降り頻けば平城の京し思ほゆるかも (万葉集巻八・一六三九)

大伴旅人が筑紫大宰府のあって故郷平城の京を憶う歌である。(略)「夜のほどろわが出でて来れば」(巻四・七五六)「夜のほどろ出でつつ来らく」(巻四・七五五)の例もあり、それが夜明けごろ、うす暗がりの未明の状態をいうとすれば、もともと語源は同じなのだから参考にしてよいのではないか。(略)この歌の「淡雪」は水気を多く含んだ柔らかい雪、牡丹雪か霙雪のような雪が降り頻きっているのだ。(略)それは早春雪、春の雪なのだ。そういう日なればこそ、ひとしおに望郷の念切なるものがあったと思われる。私はこのように解して、いよいよ奥深い歌だと尊敬するのである。

旅人が太宰帥として下向したのは神亀五年ごろ、その年の夏に妻の大伴郎女を喪っている。京師から弔問の使が来たのに報えて、

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり (同巻五・七九三)

と無常を歎き、それからまた、

わが盛りまた変若めやもほとほとに寧楽の京を見ずかなりなむ (同巻三・三二一)

と異境辺土に老いを悲しむ。ともに秀でた作であり、複雑な人生の底深い悲しみを歌っている。(略)任務がようやく終わった旅人は天平二年冬、大納言となって帰京した。

2025年4月26日(土)

今日も曇りつづき、明るいのだが……

  あけぼの杉の小さき枝を(う)(ず)に挿しすこやかであれわれのむすめよ

  薄ピンク色に透けて咲きたるつつじの花どこか女の姿態のやうな

  あけぼの杉の枝挿頭しこの春の日を出でゆく王女

『論語』微子一〇 周公、魯公に謂ひて曰く、「君子は其の親(親族)を施てず、大臣(重臣)をして以ひざるを怨みしめず、故旧(昔なじみ)、大故なければ、則ち棄てず。備はるを一人に求むること無かれ。」

周公は子の伯禽に謂はんとす親族、重臣、昔なじみの使ひ方

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 木下利玄

山畑(やまばた)の白梅の樹に花満てり夕べ夕べの靄多くなりて (同)

この「白梅」の歌は大正十四年作だけれど、病状悪化して二月十五日には数え年四十歳で死去しているから、たぶんこれは一月のうちに作った歌だろう。「白梅の樹に花満てり」というあたり、やはり利玄独特のもので、物の見方も表現の仕方もよくかんどころをおさえている。「夕べ夕べの靄多くなりて」は暖かい感じの語で、いわずして梅咲く暖かさを感じさせる。(略)利玄の歌はいずれも心暖かい。これも利玄の歌の大きな特色と思われるけれど、その長期にわたる病間にあって、なお病気の一つもないのはまこと不思議なくらいである。しかし利玄はそんな病気の歌を作るよりは、自然や風景の歌が作りたかった。極端にいえば、人間や人間世界よりも自然が好きな人だった。(略)この歌も病床にいて作った歌だが、死ぬ一か月前の作とはとても考えられない。肉体とは別に利玄は心の暖かい人だった。

2025年4月25日(金)

ずっと曇りだが、明るくなったり、暗くなったり。

  西洋たんぽぽの群がるところを覗きこむああこの幸福はかへがたきもの

  一年のうちに数日あるかなきかの良き日なりもの考へて生きむと思ふ

  病ひのことも弴と忘れてあばれたるけやき大樹の真下に遊ぶ

『論語』微子九 大師摯は斉に適く。亜飯干は楚に適く。三飯綾は蔡に適く。四飯缼は秦に適く。鼓方叔は河に入る。播鼗武は漢に入る。少師陽・撃磬襄は海に入る。

殷の末、音楽も乱れたので、大師(楽官長)の摯は斉の地へ、亜飯(二度目の食をすすめる時の音楽係)の干は楚の地へ、三飯の綾は祭の地へ、四飯の缼は秦の地へ、鼓の方叔は河内の地に、鼗をならす武は漢水の地に、少師(大師の補佐官)の陽と磬を打つ襄とは海中の島に入った。

  殷末に音楽乱るそれぞれに散らばる楽団のメンバーならむ

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 木下利玄

なづななづな切抜き模様を地に敷きてまだき春ありここのところに (歌文集・李青集)

この歌を見ると思い出すのは宋の戴益(たいえき)の詩「探春」だ。

尽日春を尋ねて春を見ず、(じょう)(れい)踏み破る幾重の雲、帰来試みに(ばい)(しよう)を把りて看れば、春は枝頭(しとう)に在りて已に十分。

春の来たことをよろこぶ思いは共通している。(略)利玄はまるで子供のようにあどけない。凍てた地の上にあの霜やけしたぎざぎざの葉っぱをぴったり食っつけている「なづな」。それはわれわれが子供の時にして遊んだあの切り抜き紙の形、その模様そっくりなのだ。それをかがみこんでつくづく見ている。そうして知らぬまにこんなところにさえも春が来ていたのだといたく感動する。しかしそれを受けとめた「ここのところに」の結句はいっそう巧い。それはただちに「なづな」をさすが、また同時にその地をいっているのだ。

特定の地をいわなかったのは、読者は自由にその地を思い浮かべて味わいうる。こういうのも利玄の特色の一つ。たとえば、
曼殊沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径
夜さむ道向うにきこえそめしせせらぎに歩みは近より音のところを通る  

利玄は鎌倉の家に病を養いながら、歌壇などとはおおかたかわりもなく、ひとりこのような

歌を作っていたのだ。

2025年4月24日(木)

一日曇りのようだ。

  わたくしの背よりも高い垣飾る白こつつじの花あまた咲く

  伊予柑を両手に割きてそのしづく甘きをすするわれにあらずや

  あけぼの杉はさみどり色に花水木は葉と白き色花盛りなり

『論語』微子八 逸民は、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連。孔子曰「其の志を降さず、其の身を辱しめざるは、伯夷・叔斉か。孔子曰く、「其の志降さず、其の身を辱めざるは、伯夷・叔斉か。柳下恵・少連を謂はく、「志を降し、身を辱しむ。言 倫に中り、行 慮の中る、其れ斯れのみ。」虞仲・夷逸を謂はく、「隠居して放言し、身 清に中り、廃 権に中る。我れは則ち是れに異なり、可も無く不可も無し。」

  逸民は伯夷・叔斉にのみにするわれは道義に従ひ進退自在なり

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 長田王

うらさぶる心さまねしひさかたの(あめ)時雨(しぐれ)の流らふ見れば (万葉集巻一・八二)

前の歌は雪曇を詠んでおり、これは時雨を詠んでいる。(略)これは直接的だ。たまらなそうにそのさびしさを訴えている。「うらさぶる心さまねし」の上二句がそれだが、この「うらさぶる」は「心さびしい」の意。しかし、すさびはてて荒涼たる、または魂の脱け落ちた心の状態、そういう意味合いも持つ。「さまねし」の「さ」は接頭語、「まねし」は多いとか頻りなどの意に近い。この上二句を受ける三句「ひさかたの」は天の枕詞として、次の四句を引き出す役を持つとともに、瞬時一息入れて上二句の上に跳ね返って来る下二句、その「見れば」を待っている。ごく単純な内容の歌だけれど、作者の息づかいがそのままこのような倒語の形となってあらわれたので、その調べがいいようもなくよい。私の四十年来の愛誦歌である。

2025年4月23日(水)

朝から雨だ。夕方まで降るらしい。あとは曇り。

春の風を思い出しつつ

  木蓮の純白の花散り果てつ花びら汚れ樹下に散らばる

  花散れば花はさっそく穢れをり一枚拾ひたしかめてゐる

  この花は江戸の女郎ごときにてたちまち汚れなまいき申す

『論語』微子七 子路従ひて後れたり。丈人(じょうじん)の杖を以て(あじか)を荷なふに遇ふ。子路問ひて曰く、「子、夫子を見るか。」丈人の曰く、「四体勤めず、五穀分たず、孰をか夫子と為さん。」其の杖を植てて芸る。子路拱して立つ。子路を止めて宿せしめ、鶏を殺し黍を為りてこれに食らはしめ、其の二子を見えしむ。明日、子路行きて以て(もう)す。孔子曰く、「隠者なり。」子路をして反りてこれを見しむ。至れば則ち(さ)る。子路曰く、「仕えざれば義なし。長幼の節は廃すべからざるなり。君臣の義はこれを如何ぞ其れ廃すべけんや。其の身を潔くせんと欲して大倫を乱る。君子の仕ふるや、其の義を行なはんとなり。道の行なはざるや、已にこれを知れり。

  子路が言ふ丈人の世話になりながらその勝手な行なひ許しがたし

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 作者不詳

はなはだも降らぬ雪ゆゑこちたくも天つみ空は(くも)らひにつつ (万葉集巻十・二三二二)

「冬の雑歌」の「雪を詠む」九首中の第七番目の歌。よみ人知らずの類とはいえ稀に見る秀歌だ。(略)それに「はなはだも」の語の使い方がなじみうすく縁遠く思われるものだから、えてして見過ごされてしまいやすい。このつかい方をした歌は万葉では他に次の二首があるきり。

はなはだも降らぬ雨ゆゑ行潦(にはたずみ)いたくな行きそ人の知るべく (同巻七・一三七〇)

はなはだも夜深けてな行き道の辺の五百(ゆざ)小竹(さ)が上に霜の降る夜を (同巻十・二三三六)

前のは譬喩歌で平凡だが、後のは冬の相聞歌で、これはなかなかの秀作だ。(略)
それは案外に近代的だ。三句「こちたくも」はぎっしり雲のつまっている状態であるにはしても、また人のうわさなどする時の「言痛くも」の思いもひそんでいる。降るだけ降ったならば天候に支配され、その重圧に堪えかねている怨みとも諦めともつかぬ複雑な心情をめだたぬ独語体の、ゆるき調べのしずかな口付きで歌いあげているだけに、いっそう思いが深い。この歌を大いに推奨したい。なお結句「曇りあひつつ」と訓むのもあるが、私は「陰らひにつつ」の古調をよしとする。

2025年4月22日(火)

今日も晴れ、春らしい日である。そして父が死んだ日である。あれから三十六年。生きていれば九十七になる。

朱川湊人の小説をはじめて読んだ。『花まんま』、これが面白かった。大阪のあまり上等ではない町内の怪異譚。短編六作である。意表をつかれたような、どこか哀しく、寂しい、しかしユーモアのある作品たちであった。朱川は1963年大阪生まれ、物語世界も、十歳前後。年代がそう遠くないので時代性もおおかたわかる。「トカピの夜」の朝鮮、「妖精生物」の摩訶不思議の住民たち、「花まんま」の生れ変り、「送りん婆」における人生の終い、「凍蝶」の生と生物のかかわり、いやいや普通のようで普通ではない。平明だけど深い。驚異的な凄さがある。

  朱川湊人の「トピカの夜」の妖しさは死せるチャンホと遊ぶ少年

「トピカの夜」を読みて涙するわれがゐる老いぼれたれど心ふるふ

  つつじの花に朱の色とうす桃色の花が咲くわれの眼下に垣なすところ

  西洋たんぽぽの黄の色のあざやげば西洋たんぽぽわが好みなり

  常葉樹の楠の木に新旧の葉のせめぎあふ旧きはおちて代替はりする

『論語』微子六 長沮・桀溺、耦して耕す。孔子これを過ぐ。子路をして津を問はしむ。長沮が曰く、「夫の輿を執る者は誰と為す。」子路曰く、「孔丘と為す。」曰く、「是魯の孔丘か。」対へて曰く、「是なり。」曰く、「是ならば津を知らん。」桀溺に問ふ。桀溺が曰く、「子は誰とか為す。」曰く、「仲由と為す。」曰く、「是れ魯の孔丘の徒か。」対へて曰く、「然り。」曰く、「滔滔たる者、天下皆是れなり。而して誰か以てこれを易へん。且つ而の人を(さ)くるの士に従はんよりは、豈に世を(さ)くるの士に従うに若かんや。耰して輟まず。」子路以て告す。夫子憮然として曰く、「鳥獣は与に群を同じくすべからず。吾斯の人の徒と与にするに非ずして誰をか与にかせん。丘は与に易へざるなり。」

孔子の弟子でむだな骨折りをするよりは、われわれ隠者の仲間入りをせよと子路にいっているが、こうしはがっかりして「私は人間の仲間といっしょに居るのでなくて、だれといっしょに居ろうぞ。」といって、長沮・桀溺の言を採用しなかった。

  長沮・桀溺が耕すところ孔子が通る結果隠者の仲間にはならず

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 山上憶良

ひさかたの天道(あまぢ)は遠しなほなほに家に帰りて(なり)(し)まさに (万葉集巻五・八〇一)

「惑へる(こころ)を返さしむる歌の」のこれは反歌であるが、長歌には序がついている。「ある人、父母を敬ふことを知れれども(じ)(やう)を忘れ、妻子を顧みずして、脱屣よりも(あなづ)れり」云々と漢文口調の名文がつづき、そうして「父母を、見れば、尊し、妻子を見れば、めぐし愛し、世の中は」と長歌がはじまる。ともにいずれも憶良の思想がよく出ている。それは儒教の道徳観で、後には実生活の常識ともなるけれど、この時代では儒教はなおもっとも進歩的な思想として、(略)尊敬せられもすれば一面けむたがれもしたことだろう。うるさいおやじであったろうが、親切であった。おせっかいだったろうが、ものわかりがよかった。
この「為まさに」がよい。心憎いほどよい。命令しているのでなく「しなさいや」とやさしくさとしているのである。憶良の歌はときどき反発を感じるけれど、こういうふうだとなかなかよい。

2025年4月21日(月)

晴れて、暖か。

  中庭は百日紅の葉が萌えてるさみどり色の木のみではなく

  さるせべりはもう勝手色オレンジの葉の燃え立ちて自己を主張す

  躑躅やうやく蕾む見ゆわづかに赤き芽立ちや四月

『論語』微子五 楚の狂(せつ)輿(よ)、歌ひて孔子を過ぐ。曰く、「(ほう)よ鳳よ、何ぞ徳の衰へたる。往く者は諫むべからず、来たる者は猶ほ追ふべし。(や)みなん已みなん。今の政に従ふ者は(あや)ふし。」孔子(お)りてこれと言はんと欲す。(はし)りてこれを(さ)く。これと言うことを得ず。

もの狂いの説與―乱世をあきらめて狂人のまねをしている隠者。鳳―鳳凰。治世に現れている乱世に隠れる瑞鳥。孔子にたっとえる。歌の内容は早くこの世に見きりをつけて隠者になれと孔子にすすめている。

  鳳よ鳳よ、徳のおとろへたる世には孔子よ早く隠士ならむか

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 山上憶良

天ざかる鄙に五年(いつとせ)住まひつつ(みやこ)のてぶり忘らえにえり (万葉集巻五・八八〇)

憶良としてはこれはめずらしくすなおな歌だ。(略)何かものたりないし、憶良らしくないという気もしないではない。それでも一時代前の歌にくらべるとその思う心は複雑だ。それは裏がわに回されてあるとはいえ、やはり憶良の歌だ。新しい時代のさかんな文化ののにおいがする。「京のてぶり」といい「忘らえにけり」というなかにそこはかとなくただよっていて、うっとりする。善くも悪しくも最高の文化人でないといえない感懐にちがいない。

この歌は上司である太宰師の大伴旅人が大納言となって帰京するに当たって、「敢へて私の懐を布ぶる歌三首」を作って旅人に「謹上」したその一首目である。

他の二つは、

かくのみや息づきをらむあらたまの(き)(へ)行く年の限り知らずて (同八八一)

吾が主の御魂賜ひて春さらば平城(なら)(みやこ)召上(めさげ)げ給はね (同八八二)