7月30日(水)

35度まで上がるそうだ。暑い、あつい。

話題の王谷晶『ババヤガの夜』を読む。イギリスのダガー賞の受賞作だというが、この暴力、そして力の世界は、気分を一掃してくれる。私は好きだ。

  うなだれて明るき街に迷ひ入る老残あはれやわれに非ざる

  いたしかたなくまぢかに死をばおもひみる避けやうのないにあらむ

  罪悪も不名誉もありし半生をかへりみてわれどうにかならぬか

『孟子』梁恵王章句上4-2 曰く、「に肥肉有り。に肥馬有り。民に有り。野にり。此れ獣を率ゐて人をましむるなり。獣相食むすら、且つ人之をむ。民の父母と為りて、政を行ひ、獣を率ゐて人を食ましむるを免れず。んぞ其の民の父母るに在らんや。

  獣を率ゐて民に食はせずば民の父母たる資格あらんや

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 式子内親王

閑なる暁ごとに見わたせばまだふかき夜の夢ぞかなしき (同)

「百首歌の中に、毎日晨朝入諸定の心を」の詞書がある。「毎日晨朝に諸定に入る」は、地蔵延命経の語。「晨朝」は午前六時で朝の勤行。「諸定に入る」は禅定に入って心身を澄ませて念じること。一首の意は、「しずかな暁ごとに起きて禅定に入ってゆくけれど、まだ夜ふかい感じで夢から覚めきらぬ思いがして悲しい」というおもむきである。(略)禅定の中を、自分自身を、と解して間違いではないが、なおそれだけでは不十分だ。こういうのは直観で感じとるほかないのである。人生をあきらめ、長夜の眠りを念じている人の歌だ。運命とはいえ、皇室制度の犠牲になって、一生を台無しにし、病身ついに出家して尼となった人の歌ではないか。煩悩も悟りもあったものではない。何もかもから抜け出して、ただしずかな死を待っている。その心を汲みとって、もっと純粋にことばのままを、そうしてそこからにじみ出るだけを感じとればよい。前の歌とともに、こういうのこそ真の象徴歌というのであろう。当代は才媛時代だが、だれも式子内親王には及ばなかった。じつに抜群の天才だった。それは前代の和泉式部と双璧の感があるが、運命はともに仏門に入り尼になって不遇の生涯を閉じた。内親王の法名は承如法と申し上げる。

7月29日(火)

今日は格別暑そうである。

  左腕の手より上、肘より下がほぼ全面的に紫斑のごとし

  この紫斑日毎に育ち大きくなる変色したる右腕ならむ

  さして痛くも痒くもなくただ紫の血を蓄へてをり

『孟子』梁恵王章句4 梁恵王曰く、「寡人願はくは安んじて教へをけん」と。孟子対へて曰く、「人を殺すにを以てするともてすると、以て異なる有るか」と。曰く、「以て異なる無きなり」と。「刃を以てすると政もてすると、以て異なる有るか」と。曰く、「以て異なる無きなり」と。

  梃、刃、政治に打ち殺すことに異なりあるか変はりなからう

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 式子内親王

暁のゆふつけ鳥ぞあはれなるながきねぶりをおもふ枕に (新古今集)

「ゆふつけ鳥」は鶏のこと。世に騒ぎのある時など、四境の祭とて鶏に木綿を着けて、

京都の四境の関で祭ったことから来ている。「木綿附鳥」の字を用いていたが、いつのほどにか「ゆふつげ鳥」といい「夕告鳥」の字を当てるようになった。これは誤まったのではなく、鶏は刻を告げる鳥だから、この方がかえって鶏をいうにふさわしいと思われ出したからだろう。それでこの歌も「夕告鳥」と読んでもかまわないわけだ。「ながきねぶり」は無明長夜というふうに解されている。これは仏教の語で、明りなく暗きこと。転じて煩悩が理性を眩まし、妄念の闇に迷って法界に出ないことをいう。そこでこの歌の意は、「夜明けを告げて人の目を覚まさせる鶏の声が、無明長夜を嘆いているわが枕に悲しく聞こえる」ということになる。私はそれでよいと思っているけれど(略)しかし「ながきねぶり」は文字通りに、永久の眠り、すなわち死を願っているのだと受けとってもよい(略)乱暴などというなかれ、(略)

これは正治二年に後鳥羽院が召された初度百首に奉られた歌の一つ(略)内親王は後白河天皇の第三皇女として生まれた(略)後に病を得て退出したけれど、生涯ついに独身だった。(略)それも新古今集中第一の才媛だ。その若き日のすぐれた歌のかずかず、とくに情熱的で理知的、幽艶哀切限りないいくつかの恋歌を見て来た目には、これが同じ人の歌かと疑われるほどだ。さびしい歌だ。悲しい歌だ。その心のうちが思いやられて涙が流れる。けれどもこれは傑作だ。晩年の傑作である。(略)私は信じて疑わない。それは新古今集などという歌風や時代を越えている。

7月28日(月)

さて、今日も暑い。

  ひさびさに生きてゐる蚯蚓に会ひにけり蠕動しつつ草むらに入る

  なぜかくも乾らぶるみみずの多きなり場所を変へつつ死にけるものぞ

  雨降れど乾ぶるみみず彼方此方踏まざるやうに俯き歩む

『孟子』梁恵王章句3-5 狗彘人の食を食ひて、検するを知らず。塗に餓莩有りて、発するを知らず。人死すれば、則ち我に非ざるなり、歳なりと曰ふ。是れ何ぞ人を刺して之を殺し、我に非ざるなり、兵なりと曰ふに異ならんや。王歳を罪する無くんば、斯に天下の民至らん」と。

  王もまた責任をこそ考えて実りに罪を着せなければ民慕ひ寄る

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 会津八一

まゆねをよせたるまなざしをまなこにみつつあきののをゆく (同)

「戒壇院をいでて」とある。戒壇院は大仏殿の前庭に鑑真が中国五台山の土をもって築いたのが、後に今の大仏殿の西がわの地に移されたといわれ、有名な四天王像が遺っている。それぞれ等身大の塑像だが、類まれな傑作として評判が高い。「毘楼博叉」は梵語で広目天をいう由だが、堂の西北隅に立っていて、この歌のとおりにひたいにしわを寄せ、眉をきつくひそめている。四天王中また一段とすぐれていて、たれの心をもひきつける。この歌はその広目天が忘れられず、戒壇院を出て、秋日照る春日野の方へ歩いて来ても、その「まゆねよせたる」目が忘れられない。いつまでもついて離れないのを「まなこにみつつ」といった。ちょっととまどわされるようだが、よく読むとこれでよいので、かえってよく調べられてあることに気づく。

この毘楼博叉は例外だが、八一の歌はほとんどといってよいほどみな仮名書きである。これは日本語の性質なり調べを重視することから来ている。確かによく調べられていて独特の歌風を思わせるが、正直いって読みづらい。一度ぐらいでは意味さえつかめない。そこで息を入れて繰り返し読むということになるが、かつて私はその歌を人をして漢字まじりに書きかえさせたことがある。すると急にその独自性のうすらぐのを感じた。やはり世間なみの表記法によるべきではなかったか。八一は渾斎とも秋艸道人とも号していた。とくに大和古寺社の歌で知られている。

7月27日(日)

暑さ、暑さ。

梶山季之『李朝残影』読了。日本の植民地時代の創氏改名や妓生をモデルにした中編小説が集められて、読むものには、その時代の朝鮮人への差別や日本人であることの強さと弱さがわかる。

かつて、「族譜」も「李朝残影」も読んだはずだが、印象がえらく違う。二十代の私は、いったい何を読んでいたのだろう。

  なにがなしかの官能などやありもせず死の予感ただ怖ろしきのみ

  喜びも苦しみもここで終はらんと思ふにすっきりとはせず

  後戸に踊る宿神のすがたおもふこの世からあの世へいざなふごとく

『孟子』梁恵王章句上3-4 の宅、之をうるに桑を以てせば、五十の者以て帛を衣る可し。の、其の時を失ふ無くんば、七十の者以て肉を食ふ可し。百畝の、其の時を奪ふ勿くんば、数口の家、以て飢うる無かる可し。の教へを謹み、之をぬるに孝悌の義を以てせば、の者、道路に負戴せず。七十の者帛を衣、肉を食ひ、黎民飢ゑずえず。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。

  飢ゑず凍えずあれば然り而して王たらざるものこれ勿し

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 会津八一

おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ (鹿鳴集)

「唐招提寺にて」の詞書があるが、なくても唐招提寺の歌だということはたれにもわかる。「まろきはしらのつきかげにつちをふみつつ」というのでわかる。とうっ用大寺金堂は、四柱造り本瓦葺の屋根の美しさもさることながら、特徴は基壇の上、正面一間を吹き放しにした八本の列柱びある。柱にはわずかだがエンタシス(ふくらみ)があり、柱間は中央が広く、漸次左右が狭くなっていて大様だ。吹き放しだから月はななめに列柱に射し込む。(略)季節を記していない。けれども「つきかげをつちにふみつつ」だからよい月夜だったには違いない。それに「ものをこそおもへ」である。ものを思う、ものが思われるの意を強調したので、それはやはり秋だったのではあるまいか。私には中秋名月ごろのように思えてならない。(略)

7月26日(土)

今日も、今日も暑いのだ。朝、五時代に歩いてくる。

井波律子の遺著になる『ラスト・ワルツ』を読む。夫、井波陵一の編である。作者紹介によると律子さんより三つ若いことになる。京都大学の後輩なのだろうかと思いつつ、エッセイのような遺著を楽しんだ。『水滸伝』や『三国志演義』の和訳だけでなく多くの論を書いていたことを知って、また全共闘世代であり、身の内に抵抗の心を持っていられたことも敬すべきであろう。

  悪性リンパ腫に罹患してよりわが歩く姿いつのまにかうつむき加減

  うつむきて歩くにも良きことあり乾びし蚯蚓避けて行きたり

  中庭より舗道に多きみみずのことしもみづから死地を求む

『孟子』梁恵王章句上3-3 農の時を違へずんば、穀げて食ふ可からず。に入らずんば、価値げて食ふ可からず。時を以て山林に入れば、材木勝げて用ふ可からず。穀と魚鼈と勝げて食ふ可からず、材木勝げて用ふ可からざるは、是れ民をして生を養ひ死を喪して無からしむるなり。生を養ひ死を喪して憾無きは、王道の始めなり。

  生活や葬儀に憂ひなくばこそまさに王道の始めなるかな

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 鏡王女

秋山の樹の下がくり逝く水の吾こそ益さめ御思よりは (同・九二)

右の天皇の歌に鏡王女の和えた歌である。「秋山の木の下を隠れつつ流れゆく水の水かさがだんだんふえるように、私のあなたをおしたいする思いはあなたの私を思い下さるよりは一層多いのでございます」とういのである。三句までが序詞だが、序詞らしいおもむきの少しもしない、これはこれだけでもしずかな秋をよく表現していて、もみじした木の下を流れゆく水が見え、その 音さえ聞こえるようだ。それにこの下の句である。「吾こそ益さめ御思ひよりは」のつつましさ、心くばりが行きとどいていて、しかも情緒はこまやかである。甘美で幽艶、この上もなく品がよい。天皇への和え歌ということもあろうが、この歌などとくにすぐれていて、女性歌人のよさを最高限に示したものと思われる。

(略)一概にはいえぬことだが、私は姉の鏡王女の歌に同情している。好き嫌いだけからいうのではない。王女の歌のどことなしに近代的な新しさがあると思っている。歌だけからして妹よりはおとなしい人だったようだ。その墓は桜井市忍阪、舒明天皇陵の奥がわにある。それは鏡のような円墳だが、その左上の古墳らしい丘があるいは額田王の墓ではないかと思ったりもする。

7月25日(金)

暑いねぇ。

ずいぶん前のラジオテキストだけれど金岡秀郎『文学。美術に見る仏教の生死観』を読み終えた。仏教哲学が理解できて、その周辺が興味深く思われた。なかなかよく出来たテキストである。

  われには古き謀叛を思ひたかぶれるただ雪つもる赤坂界隈

  銃口を向けたるは大内山の暗闇ぞ騙されたるか陸軍幹部に

  昭和天皇への怒りを育て一年経ての銃殺の刑

『孟子』梁恵王章句上3-2 孟子対へて曰く、「王戦ひを好む。請ふ戦ひを以て喩へん。塡然として之を鼓し、兵刃既に接す。甲を棄て兵を曳いて走る。或ひは百歩にして後止まり、或ひは五十歩にして後止まる。五十歩を以て百歩を笑はば、則ち如何」と。曰く、「不可なり。直百歩ならざるのみ。是れ亦走るなり」と。曰く、「王如し此を知らば、則ち民の隣国より多きを望むこと無かれ。

ここは『孟子』の中でもよく知られた箇所だ。私も高校時代教わった記憶があるし、教員時代には生徒に教えた記憶がある。

  甲を棄て兵を曳くには百歩でも五十歩でも逃げるに違はず

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 天智天皇

妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを (万葉集巻二・九一)

天智天皇が鏡王女に賜った歌である。一首の意は、「あなたの家をも絶えず見ていたいものだ、大和の大島の山の上にその家があってくれるとよいのだが」というぐらいだろう。「家も」と同じ語が重ねてある。「見ましを」「あらましを」と「ましを」が繰り返されてある。語を揃え、調子をととのえてあるのはわかる。それでも結句に疑問を持った。(略)なおよく納得できなかった。それがいつのまにかこの古調を愛するようになった。思う心をそのまま調べにのせて飾るところがない。かえって無限の妙味を感じるようになった。

(略)これは天皇が皇太子として孝徳天皇の難波の宮にいた時分の歌だろう。難波の宮からは信貴、高安、生駒の山々は一目に東に眺められる。けれども恋しい王女の家は山のむこうがわ、大和の平群だ。そこで王女の家が高安山の上にあったなら、いつでも見られるだろうに、と恋しのばれているのである。

7月24日(木)

またまた暑いのだ。

文庫になっている『今スグ知りたい日本国憲法』を読んだ。古い文庫本だが、ひょっとしたら日本国憲法を全文読み通すのははじめてかもしれない。国民に総意があることはわかるが、そんなもん選挙で問えるわけなかろう。

  ハワイコナの癖ある味のどことなくやさしさもある夏の昼どき

  珈琲の香りただよふキッチンに引き寄せられて老いも従ふ

  珈琲の豆挽くときの香りよさ妻が豆挽く、わたくしが嗅ぐ

『孟子』梁恵王章句上3 梁の恵王曰く、「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ。凶なれば、則ち其の民をに移し、其のを河内に移す。河東凶なるも亦然り。隣国の政を察するに、寡人の心を用ふるが如き者無し。隣国の民少なきを加へず、寡人の民多きを加へざるは、何ぞや」と。

  梁の恵王く「わたくしは民政に力を注いでゐる。而るに隣国はいかならむや

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 長塚節

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり (同)

大正三年、節三十六歳、死ぬ一年前の歌である。五月からアララギに連載しはじめた「鍼の如く」其一の冒頭に見える。茂吉によると節は「僕の歌に対する考はこんなものだ」といってこの歌を示したそうであるが、節のいわゆる「冴え」「品位」のよく感じられる歌で、自信があったのだろう。この歌には「秋海棠の画に」と詞書がついている。それは病中世話になったお礼のため、平福百穂の描いた袱紗の画の賛をして久保猪之吉夫妻に贈った一首である。画賛の歌などは美辞麗句に終わりがちだが、これは実感のこもる真率な作で、シュウカイドウを活けるには白磁の瓶がよく似合うと考えている。それはやはり高い趣味性から来ているが、その瓶に霧といっしょに朝の冷たい水を汲んだといっている。井戸水とはいっていないが、これは流れの水ではなく、深い掘りぬき井戸の水である。「霧ながら」「水くみにけり」の調べにそれが感じられる。(略)私は左千夫よりは節の純粋な澄徹の高品を愛する。(略)節は孤高の人だった。