2025年4月20日(日)

曇りだ。気温は上がるようだが、家の中はどこか寒いのだ。

  小手毬の花ぎつしりと咲くところしばし憩ふてまた歩きゆく

  つつじも花の赤き花びら捥ぎとりて毒だといへど蜜啜りをり

  つつじの花咲くところ目を瞑り歩きを止めてしばし息吸ふ

『論語』微子四 斉人(せいひと)(じょ)(がく)(おく)る。季桓子(きかんし)これを受く。三日(ちょう)せず。孔子(さ)

斉の人が女優の歌舞団を(魯に)贈ってきた。季桓子はそれを受けて三日も朝廷に出なかった。孔子は(魯の政治に失望して)旅立たれた。

  斉の国の妨害工作に浸りたる魯に絶望し孔子旅立つ

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 与謝野晶子

源氏をば一人となりて後に書く紫女年わかくわれは然らず (白桜集)

「紫女は年わかくわれはし然あらず」は、それが式部は年が若かったけれど、今の自分はそうではない老年だと、その事情を無愛想と思われるほどに抑揚もなくいい捨てたのがあわれである。式部にはとても及びもつかぬという歎きがある。それと年とって夫に先立たれたという悲しみもある。それやこれやの人にはいえない無量の思い、その千万言がこのことばの中にこめられてある。読みかえしていると涙がこぼれる。

青空のもとに楓のひろがりて君なき夏の初まれるかな

やうやくにこの世のかかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる

2025年4月19日(土)

今日もいい天気で、暖かくなる。

北方謙三『絶影の剣 日向景一郎シリーズ③』読む。景一郎がまた不気味なほどの活躍をするのだが、ほとんど無駄なことは語らない。しかし、滅法剣は強い。今回は医師丸尾修理が中心になる。修理を囲むようにして景一郎、森之助らが奥州・一関の山村における村の滅亡、謎解きにあたる。剣も圧倒的だが、幕府に対する修理の対応がなんともいえずおもしろいし、そこにエロスも加わりちょっと言いようもない。

  花水木に白き花咲くこの花の咲き盛るころ父死ににけり

  父の死後いっせいに咲く花水木ささげるごとく天に向き咲く

  この花の咲くとき少し涙ぐむ父よ父よこの花水木見よ

『論語』微子三 齊の景公、孔子を待つに曰く、「季子の(ごと)きは則ち吾能はず。季孟の間を以てこれを待たん。曰く「吾老いたり、用うること能はざるなり。」孔子(さ)る。

斉の景公が孔子を待遇するについて、魯の上卿である季氏のようにはできないが、季子と孟氏との中間ぐらいで待遇しよう。」といったが、やがてまた「わたしも年をとった。用いることはできない。」といった。孔子は斉から旅立った。

  斉の国の景公がいふ孔子の待遇しかれども用いることできず孔子は去りき

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 与謝野晶子

君がある西の方よりしみじみと憐れむごとく夕日さす時 (『白桜集』)

夫寛(鉄幹)に死別して、あとにのこった晶子のある日の述懐である。西の方はむろん西方浄土で、そこに亡き夫がいる。そこからひとりとなった自分をあわれむように夕日射すというので、普通人と同じ悲しみしている。それでよいのだし、其れだから心にしみわたる。(略)

「夕日射す時」はまだ述懐していない。述懐はこれから後にはじまるので、その中には今いったようなことどもが含まれる。それほどこの結句は重要な役を果たしている。同じようなつかい方はだれでもするが、そこはさすがに晶子である。と思われるとともに、そんなことにはこだわりなく、歌いたいように歌っている。

この歌でやはり晶子だと思わせるのは初句だ。他のものなら「君がゐる」または「君のゐる」くらいのところ。これは晶子の歌風のよい方面、その丈高さを象徴している。

2025年4月18日(金)

朝から雲はあるが、晴れてくる。

  明烏けさも電柱の上にゐるこの地の王のごとくふるまふ

  烏三羽が領したるこの一帯の上空に姿あらはすとんび数羽が

  木の枝にすずめ来てゐる胸の毛の白く愛らしまたすずめ寄る

『論語』微子二 柳下(りゅうか)(けい)(魯の賢大夫)、士師(罪人を扱う官)三たび(しりぞ)けらる。人の曰く、「子未だ以て去るべからざるか。」曰く、「道を直くして人に事ふれば、焉くに往くとして三たび黜けられざらん。道を枉げて人に事ふれば、何ぞ必ずしも父母の邦を去らん。」

人に仕えようとしたら、どこへ行っても三度は退けられる。退けられまいとして

道をまげて人に仕えるくらいなら、なにも父母の国を去る必要もないでしょう。

  仕へやうとして三度退けらるるとも道枉げず父母の国をも去らず

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 高市黒人

吾が船は比良の湊に榜ぎ泊てむ沖へな放りさ夜ふけにけり (万葉集・二七四)

この歌は、前の歌とともに黒人のもっとも黒人らしい歌として、私は愛誦するのである。けれども世間の人気はこれらにあるのではなく、黒人のなかから人麿的なものを見いだしてそれをよしとしていたようである。だからこれらの歌よりは同じ羇旅の歌八首中でも、

桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟潮干にけらし鶴鳴きわたる (二七一)

何処にか吾は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば  (二七五)

これらの方が評判がよい。そうして私もそれに賛同していたのだが、しかし次第に見方が変わってきたところへ折口信夫の説に誘導された。(略)その歌の心は繊細である。しかしけっして弱いのではない。たよりないしらべのようにみえても案外にひきしまっていて、瀟洒な感じだ。適当な軽みもあって、どこか近代的なにおいがする。黒人の歌のよいところだが、当時でも人びとに愛誦せられていたらしく、

「比良」が「明石」に変えられて人麿歌集にはいっている。

吾が船は明石の湊に榜ぎ泊てむ沖へな放りさ夜ふけにけり (同巻七・一二二九)

2025年4月17日(木)

朝から晴れ。二十五度くらいになるらしい。

  中庭は百日紅の葉が萌えるさみどり色の木々のみでなく

  さるすべりはオレンジ色の葉ぞ燃ゆるこんな色だったか新芽の色は

  つつじがようやく花にひらきゆく赤き新芽の蕾とならむ

『論語』微子第十八 一 微子はこれを去り、箕子はこれが奴と為り、比干は諫めて死す。孔子曰く、「殷に三仁あり。」

殷王朝の末に紂王が乱暴であったので、微子は逃げ去り、箕子は狂人を真似て奴隷となり、比干は諫めて殺された。孔子は言った、殷には三人の仁の人がいた。しわざは違うけれども、みな国を憂え民を愛する至誠の人であった。

  殷王朝の末期に紂王出でたりき殷の王三仁を皆避けられき

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 高市黒人

旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖に傍ぐ見ゆ (万葉集巻三・二七〇)

赤の反対色としての青を、沖の青さをいわずして感じささる。それらもこの歌のよいところで、はでではなく、しずかにその哀愁を歌いあげているあたり、同時代の人麿や赤人とはまたちがった感銘を受ける。

2025年4月16日(水)

天気だ。

  もう疾うに蛇口から出る水流のぬくとければ春のさ中なりけむ

  蛇口よりこぼるる水に手を濡らす温かきゆゑ春深きなり

  汚れたる麻の食器を洗ひをり洗剤まみれの春の水なり

『論語』陽貨二六 孔子曰く、「年四十にして(にく)まるるは、其れ終らんのみ。」

年が四十になっても憎まれるのでは、まあおしまいだろうね。

まあ、そうなんだろうね。

  四十にしてなほ憎まるるはさてこれで終はらんのみか

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 斎藤茂吉 

雪の中より小杉ひともと出でてをり或る時は生あるごとくうごく (『白き山』)

『小園』につづく第十六歌集が『白き山』で、昭和二十一年から二十二年まで。茂吉六十五歳から六十六歳の二年間の作。金瓶村から更に北方の大岩田に居を移した茂吉は、ここで間もなく重い病の床に臥し、苦悩に呻吟し、孤独の寂寥に堪えながら、しかもよく努めて晩年におけるまた一つの新しい境地を開くに成功した。この歌は、

道のべに(ひ)(ま)の花咲きたりしこと何か罪ふかき感じのごとく

やまひより癒えたる吾はこころ楽し昼ぬけにして紺の最上川

などからはじまる「ひとり歌へる」と題する四十一首ほどの群作。他にもっとすぐれたのがあると思うにかかわらず、妙に心をひかれる。(略)私はこの歌にさびしい茂吉の心境を読み取った。茂吉は情熱の人だ。すぐに激怒したり、しかもけっして敗けたとはいわぬ強情者だが、茂吉は限りなくさびしい人なのである。

2025年4月15日(火)

雨だったり、晴れだったり、また雨、そして晴。風が強い。

古川順弘『僧侶はなぜ仏像を破壊したか 国宝に秘められた神仏分離・廃仏毀釈の闇』読了。改めて日本近代、維新期の大きな過ちについてのルポルタージュを読んだ。とはいっても、「明治の廃仏毀釈は政府が命じたものではない。それは、神仏分離令に刺激されて、地方官や神職ときに民衆が主体となって行われたものだった。」地域によって濃淡があり、それぞれの地の特色があった。「いずれにしても明治新政府の宗教政策によって生まれた一種の「新宗教」であり。現在の神社神道もその延長線上にあるといえるのではないか。どちらにしても日本近代の大きな過ちである。

  あたたかになれば老いの軀もうねりくねりさるすべりの木の真似をしたりき

  たんぽぽの黄の色惚けそろそろに綿毛となりて飛びゆかむとす

  こんな日々が続けばよいがどうだろう梅雨も早かろ夏も近かろ

『論語』陽貨二五 孔子曰く、「唯だ女子と小人は養ひ難しと為す。これを近づくれば則ち不孫なり。これを遠ざくれば則ち怨む。」

女子と小人は養い難き、有名な文言であるが、これ差別ではないのか。

  女子と小人は養い難しといふけれどこれこそ差別といはざるべきか

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 斎藤茂吉

くやしまむ(こと)も絶えたり炉のなかの(ほのほ)のあそぶ冬のゆふぐれ (『小園』)

歌集『小園』(第十五歌集)は昭和十八年から二十一年に至る茂吉六十二歳から六十五歳までの作を収めている。二十年四月に郷里山形県南村山郡堀田村金瓶に疎開し、ここで八月十五日の敗戦をむかえた。(略)茂吉にあってはこの敗戦は言語絶する痛恨事であり、その精神的打撃は深刻極まるものがあったと思われる。この歌は「金瓶村小吟」中の一首だが、それを思い、これを読むと「くやしまむ言も絶えたり」と言わねばならかった真情がおしはかられて、ひとしおにあわれを催すのである。(略)抑制しきれずにようやく絶望に似たうめき声を発したのがこれなのだ。「言も絶えたり」にはそういう沈鬱のひびきがこもっている。(略)敗戦を悲しむ詩歌は数多くあらわれたけれど、これほど深くしずかに身に沁みわたるものは一つもなかった。

  沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ

2025年4月14日(月)

昨夜は雨のようだったが、今朝からはしっかり晴れ。

  今朝も鳴く鳥の声する強き声これはひよどり甲高きこゑ

  命あはれせいいっぱいに花ひらく木蓮の白けふはいと愛し

  海棠の赤きも増えてぽつりぽつりさみどりの葉の繁れる中に

『論語』陽貨二四 子貢問ひて曰く、「悪むこと有りや。」孔子曰く、「人の悪を称する者を悪む。下に居て上を訕る者を悪む。勇にして礼なき者を悪む。果敢にして塞がる者を悪む。」孔子曰く、「賜(子貢)や亦た悪むこと有るや。」徼めて以て知と為す者を悪む。不孫にして以て勇と為す者を悪む。訐きて以て直と為す者を悪む。」

  孔子も子路も悪むことある。悪むことあまたあれども致し方なし

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 西行法師

年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山 (新古今集)

東大寺重源上人との約による、東大寺再建勧進の沙金を得るための大旅行。

西行が初めての東国下りしたのは二十六歳の時だったから、今回は四十年ぶりということになる。

数百数千言を費やしても如何ともいい尽くせない。千万無量の思いがこもっている。