11月30日(日)

晴れ、晴れ、晴れているが、寒いのだ。

梅崎春生『怠惰の美学』を読む。エッセイなんだか小説なんだか、とにかく面白い。「怠惰」がいいのか、悪いのか。人間の本性、つまりお前はどうだと問われているような塩梅。なんだ、この清爽感は。

  水仕事すれば小便したくなる節理といへどやるせなきもの

  ベルトを外しズボンずり下げ、ヒートテック、パンツも下げて小便をする

  いつのまにか和製便器から洋便器へ小便も座る。大便と変らず

『孟子』縢文公章句上49-5 卿以下必ず(けい)(でん)有り。圭田は五十畝。余夫(よふ)は二十五畝。(し)(し)郷を出づる無く、郷田(せい)を同じくし、(しゆつ)(にふ)相友とし、(しゆ)(ぼう)相助け、疾病(しつぺい)(ふ)(ぢ)せば、則ち百姓親睦せん。方(り)にして井す、井は九百畝。其の中公田為り。八家皆百畝を私し、同じく公田を養ふ。公事畢りて、然る後敢て私事を治む。野人を別つ所以なり。此れ其の大略なり。若し夫れ之を潤沢せんは、則ち君と子とに在り」と。

  井田は一理四方を土地を分け公田をかこむ八家となす

藤島秀憲『山崎方代の百首』

午後六時針垂直に水甕の水の面にとどまりにけり 『こおろぎ』

壁時計の針である。午後六時の長針と短針は垂直に一本になる。それをそのまま描くのではなく、水甕の水に映して描いた構造が見事。一分足らずの短い出来事なのだが、なにか大切な時間であるかのように「とどまり」という動詞を使う。街に飲みに出ようかと迷う時間なのかもしれない。

初出は昭和五十二年の「山梨日日新聞」。「水甕」が「水がめ」。「面」が「おもて」、「とどまりにけり」が「指して下れり」。歌集に入れるにあたり直していて、結句の推敲は成功している。方代は推敲の人だ。

北斎は左利きなり雨雲の上から富士を書きおこしたり 『こおろぎ』

葛飾北斎が左利きだったという確証はない。ましてや「雨雲の上から富士を書きおこし」たということも確認の仕様がない。そもそも北斎が右利きか左利きかなんて考えた人がいるのだろうか。

でも、北斎の絵を観ていた(もしかすると観ていないのかも知れないが)方代は、はたと気づいてしまったのだ。突拍子もない空想なのだが、変に納得してしまう。

「なり」「たり」と二回の断言。有無を言わさない文体が、この歌を方代ならではの北斎論にしている。北斎は方代によって秘密を見抜かれてしまった?

11月29日(土)

朝は寒い。けれど晴れ。しかし寒い。雲多し。

  いつのまにか雨降りやまず檻の中の囚人のごとくざあっざあっと聴く

  天からの報せのごとく雨やまずこの世から戦さ無くならず

  髪のなき顱頂に雨の降りやまずこの世のものに非ざるわたし

(順番が変になりますが、一日抜けていたので)

 『孟子』縢文公章句上50-3 蓋し上世嘗て其の親を葬らざる者有り。其の親死すれば、則ち挙げて之を(たに)()てたり。他日之を過ぐるに、狐・狸之を食ひ、(よう)(ぜい)()之を(くら)ふ。其の(ひたひ)(せい)たる有り。(げい)して視ず。夫の泚たるや、人の為に泚たるに非ず。中心より面目に達するなり。蓋し帰り、虆俚(るゐり)を反して之を掩へり。是を掩ふこと誠に是なれば、則ち孝子・仁人の其の親を掩ふこと、亦必ず道有らん」と。徐子以て夷子に告ぐ。夷子憮然として間を為して曰く、「之に命ぜり」と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

ことことと小さな地震が表からはいって裏へ抜けてゆきたり 『迦葉』

「表からはいって裏へ抜けて」と言っても四畳半しかない家のこと。ほんの一瞬の出来事だ。なんだかんだと深読みするよりも、「ありえないことを言ってやがる」と、この一言で片づけてもらふ方が、きっと方代は嬉しいと思う。「ふふふ、やったね」という方代のしたり顔が見えて来る。

そっけない訪問者のように地震を読んだ人がかつていただろうか。どこか懐かしく、しかし新しい。刺激的であるけれども心落ち着く世界に読者は導かれる。

どうしても思い出せないもどかしさ桃から桃の種が出てくる 『迦葉』

桃から桃の種が出てくるのは当たり前。誰もが知っていること。でも、知っていることが思い出せないときは本当にもどかしい。さんざん考えた末にやっと桃の種が出て来て、すっきり。

方代のような自由気ままな生き方に憧れはあるものの、やっぱり自分には出来ないと思う。けれども自分と同じように、思い出せないもどかしさに苦労することもあるのかと思うと、別世界の人と思っていた方代が身近に感じられる。一人で自分に籠らず、読者に向けて扉を開いていた。

11月28日(金)

今日も晴れ。

  いつの日かまほろば大和へ行きたしと思へど空より参ることなし

  一度だけ大和を訪れる機会あれば飛鳥か山之辺の道、あるいは法隆寺

  法隆寺の百済観音を仰ぎ見る小学生のわれ、亡失の時間

『孟子』縢文公章句上49-4 畢戦(ひつせん)をして井地(せいち)を問はしむ。孟子曰く、「子の君将に仁政を行はんとし、選択して子を使(せし)む。子必ず之を勉めよ。夫れ仁政は必ず経界自り始む。経界正しからざれば、井地均しからず、(こく)(ろく)平らかならず。是の故に暴君汙吏(をり)は必ず経界を(まん)にす。経界既に正しければ、田を分ち禄を制すること、坐して定む可きなり。夫れ縢は壌地褊(じやうちへん)(せう)なれども、(はた)君子(た)り、将野人為り。君子無くんば野人治むる莫く、野人無くんば君子を養ふ莫し。請ふ、野は九が一にして助し、国中(くにちゆう)(じふ)が一にして自ら賦せしめんことを。

  仁政はまず土地の境界を定めるべしそして税率を決めること

藤島秀憲『山崎方代の百首』

破れたる障子の穴をふさぎたる目玉が大きく迫って来る 『右左口』

いったん『右左口』に戻る。見学に来た人の中には障子の穴から覗く人もいたようだ。もちろん演出が加えられているわけだが、まったくのフィクションということもないだろう。

方代は部屋の中に居て、障子の穴をアップで捉える。するとそこには目玉。想像以上に何もない暮らしぶりに驚き、目を見開き、凝視する様子が「目玉が大きく迫って」と表現される。

方代の場面構成とカメラワークは斬新だ。絵を描かせたら、映画を撮らせたら、独自の世界を作り出していたことだろう。

還暦の祝いの酒を買って来てひとりぽつんとかたむけており 『こおろぎ』

再び『こおろぎ』より。四句と結句がすべて平仮名表記。平仮名で表記されていると読むスピードが自然遅くなる。反対に漢字が多いとスピードは速まる。この歌の初句から三句にかけては漢字が多い。だから、初めのうちは勢い込んで読み、後の方はポツリポツリと読む。

そのスピードが歌の内容に合っている。酒を買って来るのは大急ぎ。飲むのは味わいながらゆっくりと。時間の過ごし方を文字表現で表す絶妙なテクニックだ。

この歌を発表したのは昭和五十一年。六十二歳になっている。一首の完成までに時間をかけたのだろう。

11月27日(木)

晴れている。

  散歩するに相次ぎ次に抜かれゆくその後背を追ふ懸命に歩く

  通勤する人に紛れて歩みゆく厚木駅までに幾人に越され

  六時過ぐるとたちまち駅への道をゆくサラリーマンの数多きなり

『孟子』縢文公章句上49-3 夫れ禄を世々にするには、縢(もと)より之を行へり。詩に云ふ、『我が公田に雨ふり、遂に我が(し)に及べ』と。(ただ)助のみ公田有りと(な)す。此に(よ)りて之を観れば、周と雖も亦助するなり。(しやう)(じよ)学校を設け為して、以て之を教ふ。(しやう)とは養なり。校とは教なり。序とは射なり。(か)に校と曰ひ、殷に序と曰ひ、周に庠と曰ひ、学は則ち三代之を共にす。皆人倫を明らかにする所以なり。人倫(かみ)に明らかにして、小民(しも)に親しむ。王者(わうしや)起る有らば、必ず来りて法を取らん。是れ王者の師と為るなり。詩に云ふ、『周は旧邦なりと雖も、其の命維れ新たなり』と。文王の謂なり。子(つと)めて之を行はば、亦以て子の国を新たにせん」と。

  庠・序・学・校など設け民に教ふればこれ新たなり

藤島秀憲『山崎方代の百首』

私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう 『こおろぎ』

口語で呟くように歌ったことで、嘆きがいっそう身にしみる。作られた思いではなく、心の中から零れ落ちた思いという感じがする。

父は歴史に名を残すような人ではなかった。今となっては方代の記憶の中にしか存在しない。この世に父が生きた証しは方代の死とともに消えてしまう。

だがそれって特別なことではなく、過去に生きた人々の九十九・九九九パーセントの人は、誰かの死をもってもう一度死ぬ。本当に死ぬ。私の中にも父がいるが、私が死ねば知る人はいなくなる。

ひとびとは黙って顔を見合わせてそして帰っていってしまった 『こおろぎ』

歌人としての知名度が高まるにつれ、雑誌や新聞の取材を受けるようになった。そうなると、方代の棲家を一度は見たいという人が現れることになり、結果、この歌の次第となる。「素敵なお住まいで」とは言えない暮らしぶり。

細かいことは何も歌っていないが、場面が鮮明に思い浮かんで来る。期待の表情がたちまちに戸惑いに変わり、困ったように「帰りましょうか」と目で合図しあう「ひとびと」。

方代の省略技術には目を見張るしかない。(なるほど。うん)

11月26日(水)平塚美術館へ・北澤映月展。

快晴。

梓澤要『あかあかあかや月 明恵上人伝』を読む。もっとも興味のある明恵についての小説。読まずにはいられなかった。満腹だ。充分であった。明恵の従者イサの視線を中心にして描かれているが、強い説得力がある。「あかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」ですな。こんな歌もある。

  華宮殿を空に浮かべてのぼりけむそのいにしへを映してぞみる

  むらさきの雲の上にぞ身をやどす風に乱るゝ藤を下にて

  仙のことなど少しも知らぬが仙人に憧れて吉野の山をさすらふ

  さくら散る奥千本に会ひにける鬼の末裔われかも知れず

  顎髭を風に吹かれて登りゆきたちまち飛ぶか飛鳥上空

『孟子』縢文公章句49-2 是の故に賢君は、必ず恭倹(きようけん)にして(しも)を礼し、民を取るに制有り。(やう)(こ)曰く、『富を為せば仁ならず。仁を為せば富まず』と。(か)(こう)(し)は五十にして(こう)し、殷人(いんひと)は七十にして(じよ)し、周人(しうひと)は百(ぼ)にして徹す。其の実は皆(じふ)の一なり。徹とは徹なり。助とは(しや)なり。龍子(りようし)曰く、『地を治むるは助より善きは莫く、貢より善からざるは莫し』と。貢とは数歳の(ちゆう)(かう)して以て常と為す。(らく)(さい)には(りふ)(べい)(らふ)(れい)す。多く之を取るも(ぎやく)と為さざるに、則ち(すくな)く之を取る。凶年には其の田に糞するも足らざるに、則ち必ず取り盈たす。民の父母と為りて、民をして盻盻(けいけい)(ぜん)として、(はた)終歳(しゆうさい)勤動(きんどう)するも、以て其の父母を養ふを得ざらしむ。又称貸(しようたい)して之を益し、老稚をして溝壑に転ぜしむ。(いづく)んぞ其の民を父母為るに在らんや。

  凶年も同じく貢を取りたるは賢君の取る道にはあらず

藤島秀憲『山崎方代の百首』

あかあかとほほけて並ぶきつね花死んでしまえばそれっきりだよ 『こおろぎ』

原色を好んで使った方代。中でも赤がダントツに多い。しかも鮮烈な、いや強烈な赤だ。

きつね花とは彼岸花の別称。彼岸花には別称がたくさんあり、千近くあるのではないかという説もある。死人花、地獄花、捨子花……そして曼殊沙華。この歌にはやはり「きつね花」が合う。

きつねが列をなして並んでいる雰囲気が一瞬あたたかな空気を生む。だが、それも束の間。「死んでしまえばそれっきりだよ」と突き放される。「それっきり」と思えば生きることに執着がなくなる。

一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております 『こおろぎ』

赤が続く。晩秋から冬にかけて赤く色づく果実。

「一度だけ本当の恋」で思い出すのは広中淳子。方代がたった一度だけ彼女に会ったのは一月の半ば。だから、南天の実の時期に合う。

訪れた広中宅に南天が実っていたのか。方代が南天を見たのは淳子の病室に通される前か、それとも出て来た時か。すなわち、失恋前か失恋後か。その時に見た赤い実が今も忘れられない。なんとも悲しい歌。

打ち明けるような口語文体で軽く歌ったことが、いっそう悲しくさせる。

11月25日(火)三島由紀夫・森田必勝の自決した日だ。あれから五十五年。

朝は曇り。しかし東の空は赤かった。そして雨が降るらしい。

  スーパームーンの翌日の夜の東の空に明るく月ありにけり

  その翌朝に西空高く残り月スーパームーンのなれの果てなり

  然れどされどこの十六夜の月こそが愛しきものぞ西空に浮く

『孟子』縢文公章句上49 縢の文公国を為むるを問ふ。孟子曰く、「民事は緩うす可からざるなり。詩に云ふ、『昼は爾(ゆ)きて茅かれ、(よる)は爾索を綯へ。(すみや)かに其れ屋に乗れ。其れ始めて百穀を(は)せん』と。民の道為る、恒産有る者は、恒心有り。恒産無き者は、恒心無し。苟も恒心無ければ、放辟邪侈(ほうへきじやし)、為さざる無きのみ。罪に陥るに及んで、然る後従つて之を刑す。是れ民を(あみ)するなり。焉んぞ仁人位に在る有つて、民を罔して為す可けんや。

  孟子言ふ民の仕事は農にして急務とせんや民を罔に掛けることせむや

藤島秀憲『山崎方代の百首』

右左口の峠の道のうまごやし道を埋めて咲いておるらん 『こおろぎ』

ふるさとは今頃花が咲き満ちているだろう……と郷里に思いを馳せる。詩歌の古くからのテーマである。だがしかし、思いだす花が桜や梅でないところが方代らしい。故郷の桜を思うなんて叙情的なことを歌わないのが方代が方代たる所以だ。

で、代りに出して来たのがうまごやし。すなわち馬肥。肥料や牧草にする草。花が咲いていることを気に掛ける人は少ないだろう。日本的な叙情より、目立たないけれど暮らしの中に確かに存在することに方代は重きを置いた。

こんなにも赤いものかと昇る日を両手に受けて嗅いでみた 『こおろぎ』

朝を迎えられた悦び。全面的に生きていることを寿ぐ一首。「こんなにも」の絶唱が印象的だ。てのひらを太陽に透かして生きている喜びを歌い上げた唱歌はあった。けれども、太陽は両手に受けて嗅いでしまうのですね、方代は。

結句が二文字足りない。二文字を補うとすれば何が適当かと読み返すたびに考える。「けど」のときが多い。「嗅いでみたけど」。「嗅いでみたけど」その先どうなのだろう?知りたくて私も昇る日を嗅いでみた、けど。永遠の問いを投げかけられてしまった。    (なのかなあ?このままで充分なようだが……)

11月24日(月)

今日も良く晴れている。

  壁に沿ふ柊の垣にわづかづつ花咲けば匂ふ甘く香り来

  甘やかな匂ひたゆたふ冬の垣葉に尖りある柊の香

  背の高き垣にあまたの白き花わづかに甘し、芳しきなり

『孟子』縢文公章句上48-4 然友反命す。世子曰く、「然り。是れ誠に我に在り」と。

五月(ごげつ)()に居り、未だ(めい)(かい)有らず。百官族人、可とし謂ひて知れりと曰ふ。葬るに至るに及び、四方来りて之を観る。顔色の(いた)める、哭泣(こくきふ)の哀しめる、弔する者大いに悦ぶ。

  孟子の言を善として三年の喪に服す立派なるもの

藤島秀憲『山崎方代の百首』

ある朝の出来事でしたこおろぎがわが欠け茶碗とびこえゆけり 『こおろぎ』

ここからは第三歌集の『こおろぎ』に入る。出版は昭和五十五年の晩秋。方代は六十六歳になっている。年が明けて二月、横浜重慶飯店で出版記念会が開かれ、約七十名が参加した。

方代の手に掛かると、どんな小さいことでも歌になる。とは言いつつ、果たしてこれは小さな出来事なのか。もし欠け茶碗が方代だとすると、飛び越えて行ったのは南方の戦線で戦った敵兵ということになるのか。あるいは戦争そのものか、戦後という時代か。簡単には詠み過ごせない。

寂しくてひとり笑えば卓袱台の上の茶碗が笑い出したり 『こおろぎ』

「方代の歌の素材はそう多くない」と以前に書いた。同じように方代の語彙もそう多くない。この歌でいえば「寂しく」「ひとり」「笑え、笑い」「卓袱台」「茶碗」が終生何度も使われた言葉。

マンネリと呼ぶ人もいるだろうが、そもそも一人の人間が借り物でなく自分のものとして体得している言葉なんて、たかが知れている。

完全に消化しきった自分の言葉で表現することの大切さを方代は身をもって示したと思う。借りて来た言葉や着飾った言葉を方代は一切使わなかった。