2025年6月11日(水)

雨、曇り。天気はよくない。

大嶋仁『日本文化は絶滅するのか』を読む。まあ軽快なこの国の文化の通史を読んだことになる。なるほど軽快なのだが、このままではたしかに未来は暗い。深く納得しつつ、著者同様、このままでいいわけはない。せめて短歌に親しんでいるだけ、自然に近いものとは思いつつ、あれこれ考えてみようではないか。とりあえず西田幾多郎の「無の場所」「絶対矛盾的自己同一」、そして「聖なるもの」を感じとる感受性をたいせつに考えよう。 

  シュークリームのやうなる雲が立ちあがるこの夏をすべて領するごとく

  しわしわのシュークリームが浮かびあがる夏の夕空しわしわ朱色

  夕雲のうすれ流れて山の端を朱色に染めて暮れてゆくなり

『大学』第六章三 楚書に曰く、「楚国には以て宝と為すものなし、惟だ善以て宝と為す」と。

舅犯(きゅうはん)曰く、「亡人には以て宝と為すものなし、仁親以て宝と為す」と。

(しん)(せい)に曰く、「若し一个(いっか)の臣ありて、断断兮(だんだんけい)として他の伎なきも、その心休休焉(きゅうきゅうえん)としてそれ(よ)く容るるあり。人の伎あるは、己れこれを有するが若く、人の彦聖なるは、その心これを好みす。(ただ)にその口より出すが若くするのみならず、(まこと)に能くこれを容れて、以て能く我が子孫を(やす)んずれば、(れい)(みん)も亦た尚利あらんかな。人の伎あるは媢疾(ぼうしつ)してこれを悪み、人の彦聖なるは、(すなは)ちこれを違ひて通ぜざらしむ、(まこと)に容るる能はずして、以て我が子孫を保んずる能はざれば、黎民も亦た曰に(あや)ふからんかな」と。

唯だ仁人のみ、これを放流し、(こ)れを四夷に(しりぞ)けて、(とも)に中国を同じくせず。此れを、唯だ仁人のみ能く人を愛し能く人を悪むと為す、と謂ふなり。

賢を見るも挙ぐる能はず、挙ぐるも先にする能はざるは、(おこた)るなり。不善を見るも退くる能はず、退くるも遠ざくる能はざるは、過ちなり。人の悪む所を好み、人の好む所を悪む、是れを人の性に(もと)ると謂ふ。(わざわい)必ず夫の身に(およ)ぶ。

是の故に君子に大道あり、必ず忠信以てこれを得、(きょう)(たい)以てこれを失ふ。

  君子には大道あらむ忠信を持てばこそにて驕りてはならず

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 藤原良経

幾夜われ浪にしをれて貴船川袖に玉散るもの思ふらむ (新古今集)

「浪にしをれて」は浪にひどく濡れてしおれてで、「貴船川」は洛北の貴船明神、濡れてきたことを貴船川にかけている。また貴船の縁語として「浪にしをれて」といって、その水しぶきの飛び散るのを「袖に玉散る」と袖に涙の落ちるのにかけた。

貴船明神に恋がかなうようにと祈願して、毎夜貴船川に添っておまいりするけれど、いまだに霊験があらわれないので、袖を濡らしてなげいている、というのである。

想句ともに凝りに凝った、これ以上はよくかなわぬと思われるぎりぎりのところまできている刻苦彫琢の作である。(略)内に詩情が充実している。切迫した感情があらわでなしに、品高く優美に、しかも流麗の調べ、よく朗吟にもたえうる。萩原朔太郎はこれをもって名歌絶唱並びなき作と推奨した(略)なおこの歌にも本歌があった。

奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉ちるばかり物な思ひそ (後拾遺集)

物思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる玉かとぞみる (同)

と歌ったのに対する貴船明神の「御かへし」の歌で、式部が男の声で聞こえたといい伝えられる歌である。それをふまえて作ったのだから、良経も上手をつくして力の限り歌いあげたのであろう。

2025年6月10日(火)

昨日まで一泊で箱根湯本に行ってきた。そして今日は朝から雨である。歌はもう少し後に。

  自動車の走行音に雨の降る異常を感ずマンションの横

  ひたひたとタイヤの音に微細なる雨降るを覚ゆ湿り気帯びて

  不機嫌と呼ぶほかなきか雨の中軽自動車に雑じりて走る

『大学』第六章二 是の故に君子は先づ徳を慎しむ。徳あれば此に人あり、人あれば此に土あり、土あれば此に財あり、財あれば此に用あり。徳は本なり、財は末なり。本を(うと)んじて末に(した)しめば、民を争はしめて奪うことを(おし)ふるなり。是の故に財聚まれば則ち民散じ、財散ずれば則ち民聚まる。是の故に言悖りて出ずれば亦た悖りて入り、貨悖りて入れば亦た悖りて出ず。

康詰に曰く、「惟れ命は常に(お)いてせず」と。善なれば則ちこれを得、不善なれば則ちこれを失ふを道ふなり。

  徳はもとにて財はすえ間違へてはならず天命は常ならず

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 藤原良経

うちしめりあやめぞかをる郭公鳴くや五月の雨の夕ぐれ (新古今)

ホトトギスの鳴いている五月の雨の降る夕ぐれごろだ。どこからともなく、しっとりとしたアヤメの花のにおいがしてくる。というような意味であろう。が、こう解釈したのでは元も子もなくなる。歌そのものをくり返し読み味わうことによって、このしずかな歌の気分にひたるほかないだろう。これを読むとだれでもすぐ思いおこすのは、次の歌だ。

ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな (古今集)

巻第十一の巻頭歌、題しらず、読み人しらずの恋の歌だが、これが本歌となっているのはいうまでもない。(略)五月の雨だから「うちしめり」である。そうして「あやめぞかをる」と二句でちょっと休止し、かすかににおうともなきアヤメの花の香にききいっているようすを示し、次の本歌の「ほとぎす鳴くや五月の」を借りてきて三句、四句にすえた。これは結句の「雨のしぐれ」をいうための序詞であり、序詞ではなくとも「ほととぎす鳴くや」は「五月」の枕詞みたいな役割をはたすもので、この時ホトトギスが実際に鳴いたかどうか問題ではない。(略)釈迢空は「ほんとうに優美」な歌として激賞していたが、本歌をもつものはなにも歌だけには限らない。こうした歌心を知ればこそ芭蕉も作っていたではないか。

ほととぎす鳴くや五尺のあやめぐさ

2025年6月9日(月)

ずっと曇っていた。

  わが宿をたづねくるはずの鶯の鳴く声聴こえず春もすぎゆく

  いつのまにか六月の声あひ変らずすずめが鳴けばすずめ寄り来

  わが宿といふにはどこか洋風のベッドの上に寝そべりてゐる

『大学』六章一 続 詩に云ふ、「(た)(の)しき君子は、民の父母」と。民の好むところはこれを好み、民の悪むところはこれを悪む。此れをこれ民の父母と謂ふ。

詩に云ふ、「節たる彼の南山、維れ石(がん)(がん)たり、赫赫(かくかく)たる師尹(しいん)よ、民(とも)(なんじ)(み)る」と。国を有つ者は、以て慎しまざるべからず。(こたよ)るときは則ち天下の(りく)と為らん」と。

詩に云ふ、「殷の未だ師を喪はざるや、(よ)く上帝に配へり。(よろ)しく殷に(かんが)みるべし、(しゅん)(めい)(やす)からず」と。衆を得れば則ち国を得、衆を失へば則ち国を失うを(い)ふなり。

  詩経にいふ君子は民の父母、国を治むるには慎重に、民の心を重んずべし

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 中村憲吉

身はすでに私ならずとおもひつつ涙おちたりまさに愛しく (歌集・林泉集)

自分のからだはもはや自分ひとりのものでない。いっしょに生きて行かねばならぬ妻があるのだ。そう思うと人生愛惜の念いたえがたく、不覚にも涙を落したというのである。歌集『林泉集』の終りの方にある「磯の光」と題する一から五にわたる三十四首の連作冒頭の一首。

もの思ひおもひ敢へなく現なり磯岩かげのうしほの光

岩かげのひかる潮より風は吹き幽かに聞けば新妻のこゑ

というふうに、結婚してそのあと、妻といっしょに母をもともなって瀬戸の海岸へ遊びに行った時の作である。その幸福感は「もの思ひおもひ敢へなく」の歌のとおり、まさに「現なり」であり、「磯岩かげのうしほの光」のようにみちみちている。けれど結婚は人生の大事だ。(略)「身はすでに私ならず」というような思いは、人生的責務を重んじるものでないと出てこない言葉だが、さすれば「涙おちたり」は幸福の絶頂にあって流した歓喜の涙だけではない。半ばは悔恨に似た涙も流していたにちがいないのではないか。それは同じ一連の中に次のような歌があることによって了解できる。

来しかたの悔しさ思へば昼磯になみだ流れて居たりけるかも

こし方の悔しさおほし低頭してなみだ流すも慰めと思へ

憲吉は大正四年二十七歳、東大の経済科を出ると帰郷して結婚したのだから、この二つの「悔しさ」の歌は、東京における学生生活をいっているのだということはほぼ察しがつく。それがどんなふうであったかは憶測のかぎりではないが、なお当時の退廃的な思潮の中にあって種類さまざまの影響を受けたにちがいない、その都会生活を反省しているのであろう。この二つの歌の「悔しさ」が歓喜の涙といっしょに流れたのである。だからその感情は「悲しく」の文字を当てるにしのびず、あえて「愛しく」と表記するほかなかった。歓喜と悔恨の相交錯する切実の叙情で、若き日の憲吉の代表作である。

2025年6月8日(日)

朝、雨だが、止んだ。あとは曇りのようだ。

川名壮志『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか 不確かな境界』を読む。いささか安易な新書だ。だいたい少年Aの行方が分からない。『絶歌』の跡を追わずにどうするといいたい。読む必要があるのは、少年法に関してだけだ。これはわれわれが考えずにはいられない。この社会にとって少年法はいかにあるべきか、一人一人が考えを持たねばならぬということだろう。ただ、やはり問題の提起は興味深い。少年Aは更生したのか。そうした意志があるのか。

  気がつけば太古のやうな風が吹く中庭の木々の長柄ゆらして

  この空は太古のやうに青きゆゑまなこくらみて遠くは見えず

  太古のやうな風、そして空神々しきよそのうちをこの世に参る

『大学』第六章一 所謂天下を平らかにするのはその国を治むるに在りとは、(かみ)老を老として(すなは)(乃)ち民孝に興り、上長を長として而ち民(てい)(悌)に興り、上孤を(あはれ)みて而ち民(そむ)かず。是を以て君子には絜矩(けつく)の道あるなり。上に悪むところ、以て下を使ふこと(な)く、下を悪むところ、以て上に事ふること毋かれ。前に悪むところ、以て後に先だつこと毋く、(しりえ)に悪むところ、以て前に従ふこと毋かれ。右に悪むところ、以て左に交はること毋く、左に悪むところ、以て右に交はること毋かれ。此れをこれ絜矩の道と謂ふ。

  大切なのは「絜矩の道」身近を尊び広き世界を推しはかるべし

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 額田王

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る (万葉集巻一・二〇)

天智天皇の七年五月五日、近江の蒲生野に「御猟」せられた時、額田王が皇太弟である大海人皇子におくられた歌である。「あかねさす」は枕詞で「紫」にかかる。そのころの紫色は今の紫色ではない。いくぶん赤味がかった、つまり茜色に近かったといわれる。(略)紫草の生えている野をいうらしい。が、私は注釈書にたよらず初めてこの歌を読んだ時、「紫野」は紫の花の咲いている野かと思った。紫色の花のいっぱい咲いている野を想像して、何ともいえない美しい歌だと思っていたのだ、ところがこれは紫草という野草の生えている野であることは、この歌に答えた大海人皇子の歌の「紫草の」でわかった。(略)土屋文明は「単に紫色の花の咲き乱れている野とも考えられる」といって、紫草にそれほどこだわっていない。私は賛成である。「標野」は、(略)ここは宮廷用の猟場として特別に指定せられていたのだろう。「野守」はそこを見張っている守衛ぐらいであろうか。「袖振る」はその時分の恋愛感情を示す動作のようだ。万葉集中他にもしばしば歌われている。

一首の意は、「かがやくばかり美しい紫野を行き、標野を行きながら、そんなにあなたが袖をふられたのでは、野守が見るじゃありませんか」とあたりを気にして軽くたしなめている。紫野と標野とは別々ではないが、修辞の上からこうして句をたたみ、また四句と五句を置きかえて声調をととのえた。「野守は見ずや」はきつくいっているみたいだが、声を殺して相手にだけ聞こえるようにささやいている感じである。しきりに周囲を心配しながら、なおかつ甘えている口ぶりで、ただの間でないことを思わせる。(略)甘美な媚態をふくむ複雑な内容の歌であるにかかわらず、いささかも遅滞しない。よく単純化してふくらみある明朗のしらべをなしている。

2025年6月7日(土)

晴れている。

  含嗽する水の口から奔放に散らばればわれも老いぼれならむ

  万がひとつこぼるる水の口あふれ吐き出すことに範囲広大

  この口にしまりなきゆゑ水溢れ洗面台をこぼれるごとし

『大学』第五章二 詩に云ふ、「桃の夭夭たる、その葉蓁蓁たり、(こ)の子(ここ)(とつ)ぐ、その家人に宜し」と。その家人に宜しくして、(しか)(のち)に国人を教ふべきなり。

詩に云ふ、「兄に宜しく弟に宜し」と。兄に宜しく弟に宜しくして、而る后に国人を教ふべきなり。

詩に云ふ、「その義忒(ぎたがわ)はず、是の四国を正す」と。その父子兄弟たること(のつと)るに足りて、而る后に民これに法る。此れを、国を治むるはその家を斉ふるに在り、と謂ふなり。

  桃の夭夭と葉の蓁蓁たる如くして家治めむれば国も治まる

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 土屋文明

風なぎて谷にゆふべの霞あり月をむかふる泉々のこゑ (同・山下水)

疎開地での生活も年を越したのであろう。長く苦しかった冬がようやく過ぎて、春がくるらしい気配である。それにきょうは風もおさまって何となくあたたかそうだ。久しぶりに散歩でもしようと谷の方へ歩いて来た。いつも来なれた谷あいの道だが、すでに日が暮れかけていちめんぼうと霞んでいる。目を疑うようなひとときである。するとあちこちで谷水の鳴るのがきこえ出した。まるできそっているかのような水音である。それは今宵の満月をむかえるよろこびの声なのだ。と作者の心境をその情景に託してあますなく歌いえている。

「谷にゆふべの霞あり」などは文明が苦心して作り出したしらべだし、下句の「月をむかふる泉々のこゑ」のごときは、たとい擬人法によっているとはいえ、少しも俗ではない。写実に徹したあげくはじめて手にしえた自在である。老境といったのでは失礼になるかもしれないが、人生の幾山河を越えて来た人が、日本の最も不幸な悲惨な日にあってさえも、なお生くる希望を失わなかった。これはよろこびの歌なのだ。涙をさそうよろこびの歌である。

これと前後して次のような佳作がある。よく読んで心しずかに味わいたい。

  走井に小石を並べ流れ道を移すことなども一日のうち

  にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華の花も閉ざしぬ

2025年6月6日(金)

朝から気温も上がっている。もちろん晴れだ。

  うすぼやけた夕暮の山このままに薄桃色の空暗くなる

  ペットボトルの麦茶の量が極端に減りゆくは誰か飲むものがゐる

  あたり一帯乾燥したるか咽喉乾く暇があれば麦茶のむなり

『大学』第五章一 所謂国を治むるには必ず先づその家を斉ふとは、その家を教ふばからずして能く人を教ふる者は、これ無し。故に君子は家を出でずして教へを国に成す。孝とは君に事ふる所以なり。弟とは長に事ふる所以なり。慈とは衆を使ふ所以なり。唐誥に曰く、「赤子を保んずるが如し」と。心誠にこれを求むれば、中らずと雖も遠からず。未だ子を養ふことを学んで后に嫁ぐ者はあらざるなり。

一家仁になれば一国仁に興り、一家譲なれば一国貪戾(たんれい)なれば一国乱を作す。その機此の如し。此れを、一言事を(やぶ)(敗)り、一人国を定む、と謂ふ。

堯・舜は天下を率いるに仁を以てし、民これに従ひ、桀・紂は天下を率いるに暴を以てし、民これに従へり。その令する所その好む所に反するときは、而(則)ち民従はず。是の故に君子は諸れを己れに有らしめて而る后に諸れを人に求め、諸れを己れに無からしめて而る后に諸れを人に非(誹)る。身に蔵せる所恕せずして、(すなは)も能く諸れを人に喩す者は、未だこれ有らざるなり。故に国を治むるにはその家を斉ふるに在るなり。

  一国を治むるは「赤子を保んずるが如し」家を斉ふるに在るといふべし

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 土屋文明

戦死せる人の馴らしし斑鳩の声鳴く村に吾は住みつく (歌集・山下水)

「斑鳩」は今はヤマバトぐらいに解しておく。「人の馴らしし」は飼いならしたということであろうが、これも勝手な解釈をして「手なづけた」というぐらいにしておく。そうでないと鳥かごの中に飼われている斑鳩が鳴いているようで、歌がらが小さくなるからだ。戦死した青年は、善良な人がらだったのだろう。その村の森や林に遊びにくるヤマバトを可愛がって撃つなと人びとをいましめていた。みずからは餌などもまいて手なずけることに努力したのだろう。そのかいあって季節になると毎年その鳥がやって来て呼ぶように鳴くが、その青年は永遠に帰って来ない。食べられるものなら何でも食べた食糧難の戦中戦後だ。ゆかりを求めてかろうじて住みついた山村に、

  かく無心なる斑鳩の鳴く声を聞いて感慨にたえられなかった。

昭和二十年五月、青山一帯が爆撃された時、アララギ発行所とともに文明の家も焼夷弾に焼けた。それからまもなく群馬県吾妻郡の故郷に近い原町川戸に疎開して終戦を迎えた。この歌集『山下水』は、疎開の日からはじまって翌二十一年の末までで終わっているが、これは「川戸雑詠」と題する中の一首で、歌集全体が川戸雑詠であるといってもよいほどに山峡僻地での国破れて山河残る自然や、人生のさまざまを丹念かつ克明に歌っておびただしい数にのぼる、それら全部の作の序歌の役をなすかのごとく、まことに思いが深い。

結句「吾は住みつく」は、そっけなく、無愛想のようにも感じられるが、ムダをいわず、よけいな語をはぶくという、文明としてはこれがぎりぎりだ。時には過ぎて詰屈感をもたらす場合がないではなかった。いやしばしばあったと思われるけれど、この『山下水』ごろになるとそれが次第にかげをひそめる。かげをひそめたのではなく、

目立たなくなったというのが本当で、これは文明がその自身の文明調をようやく完成せしめて行ったことを物語る。

(略)かつて私が、あたかも丸太ん棒を振りあげて犬ころをたたきふせているみたいだ、とその歌を評したことがあるが、そういう時期がたしかにあった。しかし、『山下水』あたりになると、そういうものを一切ふくめて完全に自家薬籠中のものにした感がある。(略)

2025年6月5日(木)

今日は朝から、ずっと晴れらしい。

鶴見太郎『ユダヤ人の歴史』を読む。副題は、「古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズム」とあるように三〇〇〇年の迫害・離散、そして流離。さらにポグロム、ホロコースト、地域をまたがるさまざまな流転の歴史。ユダヤ人がいいとか悪いとかではないが、なぜかくも苦難を経験しなければならなかったというようなことを含めて、現在のイスラエルという国を私は許すことはできない。イスラエルはガザに対して、どうしてこんなにも強行なのか。何もできない私だが意志表明だけはしておきたい。ガザ地区の、パレスチナの私は味方でありたい。ユダヤ人の歴史にはどうも違和感ばかり感ずるのだが、たとえばブラジル日系人などを考えると、そんなに遠い世界のことではない。

  蘭奢待の木の屑にほふくらやみの永遠といふ長き時経る

  ガラス玉色とりどりにころりころり正倉院の床にころがる

  親しきは聖武天皇御物にてこれは何これは何分別してゐる

『大学』第四章 所謂その家を(ととの)ふるはその身を(おさ)むるに在りとは、人はその親愛する所に(お)(於)いて(かたよ)(僻)り、その賤悪(せんお)する所に之いて譬り、その畏敬する所に之いて警り、その哀矜(あいきょう)する所に之いて譬り、その敖惰する所に之いて警る。故に好みてもその悪を知り、(にく)みてもその美を知る者は、天下に(すくな)し。

故に諺にこれ有り、曰く「人はその子の悪きを知るなく、その苗の碩(大)いなるを知るなし」と。此れを、身脩まらざればその家を斉ふべからず、と謂ふ。

  その家の和合ねがふにはおのが身を脩することだこれのみしかなし

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 持統天皇

(いな)といへど(し)ふる志斐(しひ)のが(しひ)(がたり)このごろ聞かず(われ)恋ひにけり (万葉集巻三・二三六)

天皇が「志斐嫗」に賜うた歌だが、この老女はどういう人かわかっていない。いわゆる語部のようなものであろうと考えられている。たいそう記憶がよく、また話上手であって、天皇のお気に入りであったらしい。「否」は原文「不聴」と記されているから、おで、わたしは聞くのはもうたくさんだというのに、いくらでもむりに聞かせる志斐の強語もこのごろしばらく聞かないので、わたしは恋しくなったというやさしい心くばりなのであろう。さすがに女性らしい口つきの、しかもひろく大きく豊かな心からしか発しない機知諧謔をまじえて、これ以上はだれのもいえないと思うほどのうまい冗談をじつにかるがるといっている。志斐嫗に対する思いやりというのか、老女をいたわる暖かい心づかいも感じられて、君臣の間がらとはいえ、わけへだてなくしておられた、その親密感がよくあらわれている。

(略)天皇のふだんの生活、その中の女らしい心のうちを、かような内容のかような曲折ある歌がらを感じて天皇の歌才の豊かさに嘆息するのである。

なおそくざに答えた志斐嫗も、さすがに才たけた女だけに、かるくやり返していてほほえましい。  否といへど語れ語れと詔らせこそ志斐いは奏せ強語と詔る (同・二三七)