2025年4月30日(水)

今朝も天気だ。ずうっと晴れるようだ。

  ゑんじゅの枝にみどりの葉の繁りそこにもぽつぽつ壺花咲く

  山焼の烟など見えず感傷をおぼえることもあらず過ぎたり

  遠山は大地にどっしり坐りたり動かず騒がず位置変へるなし

『論語』子帳三 子夏の門人、交はりを子帳に問ふ。子帳曰く、「子夏は何とか云へる。対へて曰く、「子夏曰く、可なる者はこれに与し、其の不可なる者はこれを距がんと。」子張曰く、「吾が聞く所に異なり。君子、賢を尊びて衆を容れ、善を嘉して不能を矜む。我れの大賢ならんか、人に於いて何の容れざる所あらん。我れの不賢ならんか、人将た我れを距がん。これを如何ぞ其れ人を距がんや。」

  君子ならば尊き人と一般の人とを分けず包容し容れぬとなれば向うから拒む

前川佐美雄『秀歌十二月』 尾上柴舟

哀れにも晴れたるかなや飛ぶものは飛びつくしたる夕暮の空 (歌集・素月集)

「法師庵の縁にて空を仰ぐ絵に」という詞書があるから、これは画に題したので、つまり画賛だ。(略)この歌はそういう題詞と関係なく、これはこのまま独立してまことにすぐれた歌であると思われる。晴れわたった夕暮れの空に、飛ぶものすっかり飛んで行ってしまって、何もないというのだ。あとはとっぷりと暮れ沈む空があるばかりだという、この心境はただごとでない。(略)この透徹ぶりはどうだ。(略)これほど美しく、高いものはめったにないという気がする。(略)私はこの一首をようやく捜し出して、さすがは柴舟なるかなと思った。

2025年4月29日(火)

朝から晴れている。昭和天皇の誕生日である。「昭和の日」、忘れてはならない。

木村晋介『サリン それぞれの証し』を読む。麻原彰晃を先頭にしたオウム真理教が起こした残虐なテロ行為を読み解こうとして証言を集め、さまざまに検証しようとした一書。全編有意なものだが、解決できぬオウムの「神秘体験」の項に大きな刺戟を受けた。麻原彰晃は、私より一歳上、ほぼ同世代なのだ、あそこまで無謀になることにどこか責任があるような気がして、まだ死刑にしないでいたらと思わずにはいられない。オウムに関しては、後継団体もあり、まだまだ明らかにすることがある。私にはできそうもないが、後の世代にお願いしたいことの一つだ。

  大山の植栽きれいに分かれたりす枯れし枝葉、常盤の樹々と

  崖あれば下には枯れし木々の群れ常盤の木々は崖上に立つ

  山に登り冬木の間より空を見るかるがるとその青さに浮かぶ

『論語』子帳二 子帳曰く、「徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からずんば、焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く(な)しと為さん。」

「徳を守っても大きくはなく、道を信じても固くはない。それでは居るというほどのこともなく、居ないというほどのこともない。居ても居なくてもおなじだ。」

  居ても居なくてもかはらずに居ても居なくてもどうといふなし

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 尾上柴舟

つけ捨てし野火の烟のあかあかと見えゆく頃ぞ山は悲しき (歌集・日記の端より)

「初春枯草を焼く為に火を点ける。其烟が昼の間は山の一部を包んで匍匐してゐるが、日が暮れて段々夜になるに従ひ明るく空の色を焦がして実に綺麗だ。だが旅中にある身にはなんとなくうら悲しさを誘はるる様に感じられる。殊にこの野火の明るく見え初むる頃夜陰に立つ一山の風光が傷ましく見え、肌寒い風などがすこし吹き立つ時など実際淋しい感じがする。」(略)国語の教科書にもよく出ているが、私は疑問をもつ。

紫舟より十歳年下の生年吉井勇はそのころ湘南鎌倉にあって、

伊豆も見ゆ伊豆の山火も稀に見ゆ伊豆はも恋し我妹子のごと

と、放蕩無頼をなげきながら、海にかなた遥かに伊豆の山火を見ては、またせつない胸を燃やしていた。その伊豆の山火を伊豆旅行中の紫舟が見た。たまたまそれを伊東のへん、天城山の近くで見て詠んだのがこの歌で(冒頭につづく)

2025年4月28日(月)

今日も曇り、夕刻には雨になるらしい。

  妙ちきりんな影のかたちはわが(み)なり蹌踉と歩けばひょろひょろとゆく

  わが影の少し薄くて生きの(み)をあらはにさらす地獄のやうな

  双つの影がわたしの(み)をば分断す二つに分かれせんすべあらず

『論語』子張第十九 一 子張曰く、「士は危ふき見ては命を致し、得るを見ては義を思ひ、祭りには敬を思ひ、喪には哀を思ふ。其れ可ならんのみ。」

子帳がいった、「士人は危険を見れば命を投げ出し、利得を見れば道義を考え、祭りには敬うことを思い、喪には悲しみを思う、まあそれで宜しかろう。

  子帳曰く士人は危ふきに命を出すまあまあそれで宜しからふ

前川佐美雄『秀歌十二月』 二月 大伴旅人

(いも)として二人作りし吾が(し)(ま)は小高く繁くなりにけるかも (万葉集巻三・四五二)

「故郷の家に還り入りて、則ち作れる」という詞書のある三首中二つ目のうた。(略)しかし帰っても妻はいない。筑紫でなくした妻を思うと断腸の思いがしたのだろう。(略)妻といっしょに作った庭の、わずかな年月うちにこんなにも木が高く茂ったというだけのこの歌は、情景そのままを叙したにすぎない。しかし明快にして豁達、豊かな調べの、また柄の大きい歌であって、いっそうあわれ深さを感じさせる。

この「なりけるかも」は、同じ旅人の吉野の歌、

昔見し象の小河を今見ればいよよ清けくなりにけるかも (同巻三・三一六)

とまったく同じ。そうして人麿の歌のそれとも同じだが、人麿の歌よりは旅人の方が品が高い。また同じ挽歌にしても、旅人の方がその悲しみは大きくかち切実である。旅人個人の悲しみの中に、家門や時代の苦しみを背負っている。     帰京してたった一年、翌天平三年七月、年六十七歳で没した。国初以来きっての名門、軍を率い軍部の長として代々国家に奉仕して来た大伴氏は、事実上旅人で終わるのである。

2025年4月27日(日)

まあ、曇りつづきだが春らし日だ。しかし体調がすこぶる悪い。一日寝て過ごす。

海音寺潮五郎『武将列伝 秀吉の四桀』を読了。石田三成、蒲生氏郷、加藤清正、伊達政宗の、いわば史伝だが、それぞれに好き嫌いがあるらしく石田三成にきびしく、伊達政宗にももんくがありそうだ。蒲生氏郷と加藤清正は筆が走っているように思える。いずれも秀吉に臣従した武将であり、おもしろかった。伊達政宗には、漢文一編、漢詩三十首、和文二編、和歌二百奈々十五首がのこっているという。その中から後水野尾天皇勅撰の「集外歌仙」に採られたという和歌を一首、

  鎖さずとも誰かは越えん逢坂の関の戸埋む夜半の白雪

  初燕けふ飛びたるを見たりけり卯月終はりにこの町に来る

  いづこかに燕の巣があり子つばめの餌を求めて鳴く声聞こゆ

  九階のベランダあたりをひるがへりまたひるがへり空旋回す

『論語』微子一一 周に八士あり、伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随と季騧。

周の国には八士あり伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随と季騧

前川佐美雄『秀歌12月』 二月 大伴旅人

淡雪のほどろほどろに降り頻けば平城の京し思ほゆるかも (万葉集巻八・一六三九)

大伴旅人が筑紫大宰府のあって故郷平城の京を憶う歌である。(略)「夜のほどろわが出でて来れば」(巻四・七五六)「夜のほどろ出でつつ来らく」(巻四・七五五)の例もあり、それが夜明けごろ、うす暗がりの未明の状態をいうとすれば、もともと語源は同じなのだから参考にしてよいのではないか。(略)この歌の「淡雪」は水気を多く含んだ柔らかい雪、牡丹雪か霙雪のような雪が降り頻きっているのだ。(略)それは早春雪、春の雪なのだ。そういう日なればこそ、ひとしおに望郷の念切なるものがあったと思われる。私はこのように解して、いよいよ奥深い歌だと尊敬するのである。

旅人が太宰帥として下向したのは神亀五年ごろ、その年の夏に妻の大伴郎女を喪っている。京師から弔問の使が来たのに報えて、

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり (同巻五・七九三)

と無常を歎き、それからまた、

わが盛りまた変若めやもほとほとに寧楽の京を見ずかなりなむ (同巻三・三二一)

と異境辺土に老いを悲しむ。ともに秀でた作であり、複雑な人生の底深い悲しみを歌っている。(略)任務がようやく終わった旅人は天平二年冬、大納言となって帰京した。

2025年4月26日(土)

今日も曇りつづき、明るいのだが……

  あけぼの杉の小さき枝を(う)(ず)に挿しすこやかであれわれのむすめよ

  薄ピンク色に透けて咲きたるつつじの花どこか女の姿態のやうな

  あけぼの杉の枝挿頭しこの春の日を出でゆく王女

『論語』微子一〇 周公、魯公に謂ひて曰く、「君子は其の親(親族)を施てず、大臣(重臣)をして以ひざるを怨みしめず、故旧(昔なじみ)、大故なければ、則ち棄てず。備はるを一人に求むること無かれ。」

周公は子の伯禽に謂はんとす親族、重臣、昔なじみの使ひ方

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 木下利玄

山畑(やまばた)の白梅の樹に花満てり夕べ夕べの靄多くなりて (同)

この「白梅」の歌は大正十四年作だけれど、病状悪化して二月十五日には数え年四十歳で死去しているから、たぶんこれは一月のうちに作った歌だろう。「白梅の樹に花満てり」というあたり、やはり利玄独特のもので、物の見方も表現の仕方もよくかんどころをおさえている。「夕べ夕べの靄多くなりて」は暖かい感じの語で、いわずして梅咲く暖かさを感じさせる。(略)利玄の歌はいずれも心暖かい。これも利玄の歌の大きな特色と思われるけれど、その長期にわたる病間にあって、なお病気の一つもないのはまこと不思議なくらいである。しかし利玄はそんな病気の歌を作るよりは、自然や風景の歌が作りたかった。極端にいえば、人間や人間世界よりも自然が好きな人だった。(略)この歌も病床にいて作った歌だが、死ぬ一か月前の作とはとても考えられない。肉体とは別に利玄は心の暖かい人だった。

2025年4月25日(金)

ずっと曇りだが、明るくなったり、暗くなったり。

  西洋たんぽぽの群がるところを覗きこむああこの幸福はかへがたきもの

  一年のうちに数日あるかなきかの良き日なりもの考へて生きむと思ふ

  病ひのことも弴と忘れてあばれたるけやき大樹の真下に遊ぶ

『論語』微子九 大師摯は斉に適く。亜飯干は楚に適く。三飯綾は蔡に適く。四飯缼は秦に適く。鼓方叔は河に入る。播鼗武は漢に入る。少師陽・撃磬襄は海に入る。

殷の末、音楽も乱れたので、大師(楽官長)の摯は斉の地へ、亜飯(二度目の食をすすめる時の音楽係)の干は楚の地へ、三飯の綾は祭の地へ、四飯の缼は秦の地へ、鼓の方叔は河内の地に、鼗をならす武は漢水の地に、少師(大師の補佐官)の陽と磬を打つ襄とは海中の島に入った。

  殷末に音楽乱るそれぞれに散らばる楽団のメンバーならむ

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 木下利玄

なづななづな切抜き模様を地に敷きてまだき春ありここのところに (歌文集・李青集)

この歌を見ると思い出すのは宋の戴益(たいえき)の詩「探春」だ。

尽日春を尋ねて春を見ず、(じょう)(れい)踏み破る幾重の雲、帰来試みに(ばい)(しよう)を把りて看れば、春は枝頭(しとう)に在りて已に十分。

春の来たことをよろこぶ思いは共通している。(略)利玄はまるで子供のようにあどけない。凍てた地の上にあの霜やけしたぎざぎざの葉っぱをぴったり食っつけている「なづな」。それはわれわれが子供の時にして遊んだあの切り抜き紙の形、その模様そっくりなのだ。それをかがみこんでつくづく見ている。そうして知らぬまにこんなところにさえも春が来ていたのだといたく感動する。しかしそれを受けとめた「ここのところに」の結句はいっそう巧い。それはただちに「なづな」をさすが、また同時にその地をいっているのだ。

特定の地をいわなかったのは、読者は自由にその地を思い浮かべて味わいうる。こういうのも利玄の特色の一つ。たとえば、
曼殊沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径
夜さむ道向うにきこえそめしせせらぎに歩みは近より音のところを通る  

利玄は鎌倉の家に病を養いながら、歌壇などとはおおかたかわりもなく、ひとりこのような

歌を作っていたのだ。

2025年4月24日(木)

一日曇りのようだ。

  わたくしの背よりも高い垣飾る白こつつじの花あまた咲く

  伊予柑を両手に割きてそのしづく甘きをすするわれにあらずや

  あけぼの杉はさみどり色に花水木は葉と白き色花盛りなり

『論語』微子八 逸民は、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連。孔子曰「其の志を降さず、其の身を辱しめざるは、伯夷・叔斉か。孔子曰く、「其の志降さず、其の身を辱めざるは、伯夷・叔斉か。柳下恵・少連を謂はく、「志を降し、身を辱しむ。言 倫に中り、行 慮の中る、其れ斯れのみ。」虞仲・夷逸を謂はく、「隠居して放言し、身 清に中り、廃 権に中る。我れは則ち是れに異なり、可も無く不可も無し。」

  逸民は伯夷・叔斉にのみにするわれは道義に従ひ進退自在なり

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 長田王

うらさぶる心さまねしひさかたの(あめ)時雨(しぐれ)の流らふ見れば (万葉集巻一・八二)

前の歌は雪曇を詠んでおり、これは時雨を詠んでいる。(略)これは直接的だ。たまらなそうにそのさびしさを訴えている。「うらさぶる心さまねし」の上二句がそれだが、この「うらさぶる」は「心さびしい」の意。しかし、すさびはてて荒涼たる、または魂の脱け落ちた心の状態、そういう意味合いも持つ。「さまねし」の「さ」は接頭語、「まねし」は多いとか頻りなどの意に近い。この上二句を受ける三句「ひさかたの」は天の枕詞として、次の四句を引き出す役を持つとともに、瞬時一息入れて上二句の上に跳ね返って来る下二句、その「見れば」を待っている。ごく単純な内容の歌だけれど、作者の息づかいがそのままこのような倒語の形となってあらわれたので、その調べがいいようもなくよい。私の四十年来の愛誦歌である。