2025年6月20日(金)

少し涼しかったが、やがて暑い。

  こがらすが跳ぬるが如く楽しげに何か咥へて嬉しさうなり

  こがらすが尻尾ふりふり跳ね歩く追へばたちまち線路の彼方に

  舗道上をちょこちょこ歩くはすずめなり虫のやうなるものを咥へて

『中庸』第三章二 子曰く、「道は人に遠からず。人の道を為して人に遠きは、以て道と為すべからず。詩に云ふ、「(か)(き)り柯を伐る、その(のり)遠からず」と。何を(と)りて以て何を伐る、(げい)してこれを視るも、猶ほ以て遠しと為す。故に君子は人を以て人を治め、改むるのみ。

  君子とは身近なる人の道により人を治めて人を責めず

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 (ふ)黄刀(きのと)(じ)

河上(かわのへ)五百箇(ゆづ)磐群(いはむら)に草むさず常にもがもな(とこ)処女(をとめ)にて (万葉集巻一・二二)

「河上」は「カハカミ」とも訓む。どちらでもよいが、私は「カハノヘ」の方が好きだ。川のほとりの意である。「五百箇磐群」はたくさんの岩のむらがりと解してよいが、「ゆづ」に「斎ふ」の意があり、霊魂をもっているような巨石巨岩をいう。「草むさず」は草がはえないこと。「常にもがもな」は常に変わりなくあってほしいなあ、という願望に感動をこめている。「常処女」はいつまでも変わらない可愛い少女という意味で、いまでいう「永遠の処女」などとは違っている。じつによい語で、私の愛惜する古語の一つである。「草むさず」までは「常に」というまでの序歌だが、一首の意は、河のほとりにむらがっている霊ある巨岩に草などはえないように、いついつまでも変わることのない美しい処女であってほしいものです、ということになる。

天武天皇の四年春二月、十市皇女が伊勢神宮に参拝した時、皇女に従って行った吹

黄刀自が、波多の横山の巌を見て詠んだ歌である。(略)吹黄刀自はほかにも歌はあるがいかなる人かわかっていない。けれど刀自はかねてより十市皇女にふかく同情していたようだ。それで横山の霊ある岩を見て、いつまでも若く美しい処女であっていただきたいと祈ったのだ。単純といえば単純だが、その願いが一本に通っていてこころよい調べをなしている。しかしこの歌はどこか悲しみに似たせつない思いをつたえてくる。「処女」といっているけれど、この時の皇女は処女などではなく、まことに気の毒な立場におられた。

十市皇女は、大友皇子(弘文天皇)の妃となられていたが、天皇崩御の壬申の乱後は(略)「処女」というのはあたらないけれど、まだ年も若いのだし、心をひきたてるべく、さびしい境遇に同情して、あえて「処女」と言ったのであろう。(略)皇女は薄命で、それから三年後の天武七年夏、天皇が伊勢に行幸しようとする時、急に病を発して亡くなった。ために行幸は中止されたとある。

2025年6月19日(木)

三日続けて、今日も猛暑だ。耐えられぬ。

  朝の日にかがやくあけぼの杉の木に挑みたくなるその幹に触れ

  久々に初夏のみどりに圧倒され誰か殺さむと思ふときあり

  闇の中にまた闇があるその奥に血潮したたる一隅がある

『中庸』第三章一 君子の道は、(ひ)にして(いん)なり。夫婦の愚も、以て(あずか)り知るべきも、その至れるに及んでは、聖人と雖も、亦た知らざる所あり。夫婦の不肖も以て能く行なうべきも、その至れるに及んでは、聖人と雖も、亦た能くせざる所あり。天地の大なるも、人猶ほ憾む所あり。故に君子大を語れば、天下能く載すること莫し。小を語れば、天下能く破ること莫し。詩に云ふ、「鳶飛んで天に戻り、魚淵に躍る」と。その上下に察るを言ふなり。君子の道は、端を夫婦に(はじ)め、その至れるに及んでは、天地にも(いた)るを言ふなり。

  君子の道は端を夫婦にはじめその究極は天地の果てまで

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 弓削皇子

滝の上の三船の山に居る雲の恒にやあらむとわが思はなくに (万葉集巻三・二四二)

同じ弓削皇子が「吉野に遊しし時」の歌だが、前の歌と同じかどうかはわからない。多分ちがうのであろう。「滝の上」は滝のほとり、または急流のほとりという意味にとられているが、文字通り滝の上、急流の上と頭に感じとってもよい。吉野の宮滝の地の、吉野川をへだててすぐ南すこし東にそびえる山が現在三船山といわれている。はたして昔のままかどうかはよくわからない。

滝の上の三船の山にはいつも雲がかかっている。あの雲のように変わることなくいつまでもこの世にある命とは思われない、と人の世をはかなんでいる。中世のいわゆる「無常感」とは違うけれど、しかしこれはやはり人間共通の無常感を歌っているので、それをいうのに山にかかっている雲である。漠々とはしているけれど、また大いなる感慨である。飽きることなく、いつまでも鑑賞にたえうる歌である。これに対して春日王は次のように和している。

王は千歳にまさむ白雲の三船の山に絶ゆる日あらめや (同・二四三)

弓削皇子は文武天皇三年七月に亡くなっている。

2025年6月18日(水)

今日も朝から猛暑である。

  にんげんとはどうしようもないもの世界中どこにおいても戦乱たへず

  善良なる心のいつか無くなりぬ包丁持てば殺したくなる

  こころには常に殺意がうずくまる平生はごくふつうの顔して

『中庸』第二章四 子路、強を問ふ。子曰く、「南方の強か、北方の強か、(ある)ひは(なんじ)の強か。(かん)(じゅう)以て教へ、無道にも報ひざるは、南方の強なり。君子これに(お)る。金革を(しきもの)とし、死して(いと)はざるは北方の強なり。(なんじ)の強者これに居る。故に君子は和して流れず、強なるかな矯たり。中立して(かたよ)らず、強なるかな(きょう)たり。国に道あるときは塞を変ぜず、強なるかな矯たり。国に道なきときも死に至るまで変ぜず、強なるかな矯たり」と。

子曰く、「隠れたるを索め怪しきを行なうは、後世に述ぶること有らんも、吾はこれを為さず。君子は道に(したが)ひて行ふ。半途(はんと)にして廃するも、吾は已むこと(あた)はず。君子は中庸に依る。世を(のが)れて知られざるも悔ひざるは、唯だ聖者のみこれを能くす」と。

  孔子がいふ中庸こそを執るべきなり挫折ありても已むことなしに

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 弓削皇子

古に恋ふる鳥かも弓弦葉の御井の上より鳴きわたりゆく (万葉集巻二・一一一)

持統天皇の吉野行幸に従駕した弓削皇子が、京(明日香か藤原)にとどまっていた額田王に贈った歌である。これに対して額田王は、古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きしわが恋ふる如 (同一一二)

と和して答えているから、この鳥はホトトギスであることがわかる。(略)ホトトギスは昔のことを思って鳴く鳥だといわれる。(略)「弓絃葉は、今のユズリハで、新年の儀の注連縄などにいつける交譲木である。「弓絃葉の御井」は固有名詞のような感じがする。その井のほとりに老樹のユズリハがあったので、そう呼びなしていたのだろう。吉野川沿いであるから井はむろん走井で、清水の流れ出る泉であろう。(略)一首の意は、「昔のことを恋いしとうている鳥なのであろうか、そのホトトギスが今のユズリハの井の上を鳴きながら飛んで行くよ」というので、それがどういう意味をこめて歌われたか知らなくても、このままでよくわかるだけでなく、すがすがしい感じの調べの妙味じつにいうべからざるほどのものである。この下の句のおのずからなる、写実など超越して自然と人間とがまことに一如に帰したがごとき息づかいである。はじめから意味を含ませようとしたのではない。その情景を見て昔のことを思い出したのだ。弓削皇子は天武天皇の第六皇子、この時の皇子はまだ三十にならぬ青年だが、額田王は六十を超えている。(略)皇子にすれば額田王はよきおばさまのように思われて親しくしていたのだろう。その二人が天武天皇時代を恋いしたうのは当然である。だから「古に恋ふる鳥かも」の一、二句にこめられた思いは深く、それに答えた額田王の歌は皇子のよりは幾分調べは低いようだが、やはり自然な感情がよく出ていると 思われる。

2025年6月17日(火)

朝から暑い。35℃くらいになるという。八時半には冷房だ。

  妻が買ふ小さき甘きトマト食ふ赤きしづくをしたたらせつつ

  幽霊のやうに出てきてまた隠る人呪ふこと舌をだしつつ

  闇にするこの声は猫が鳴く声か長く鳴きつつすがたは見えず

『中庸』第二章三 子曰く、「回(顔回・孔子の門人)の人と為りや、中庸を択び、一善を得れば、則ち拳拳服膺して、これを失はず」と。

子曰く、「天下国家も均しくすべきなり。(しゃく)(ろく)も辞すべきなり。白刃も踏むべきなり。中庸は(よ)くすべからざるなり」と。

  顔回は中庸を択び身につくる然れども中庸はむずかしきもの

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 北原白秋

昼ながら幽かに光る螢一つ孟宗の藪を出でて消えたり (歌集・雀の卵)

前の歌を作ってから二か月とたたないころの歌である。同じくたれが見てさえたちどころにわかるすぐれた歌で、また同じく感覚的、敏感にその情景をとらえているものの、それがあまり目立たないのはさすがである。目立ちすぎては情感を殺ぐ。あえていぶしをかけているように見えるのは用意あってのことなのだ。この時分の白秋の生活は貧の底をついている。そういう生活苦がそれとなく作用していないとはいわないまでも、白秋はあれで心づかいのまことにこまかい人だった。いつか物語るおりもあろうが、心にくきばかりそれがこの歌の中にも感じられる。文句なしにともに白秋壮年期の秀歌である。

2025年6月16日(月)

今は曇りだが、晴れて29度になるらしい。

  邪悪なる心は誰のうちにもある人を殺してよろこぶ心

  夏木立見上げてこころみどりなりこのみどり少し濁りがあらむ

  さがみ川の青く見ゆる日わが知らぬ一人溺れて死すといふなり

『中庸』第二章二 子曰く、「舜は其れ大知なるか。舜は問ふことを好み、而して(じ)(げん)を察することを好み、悪を隠して善を揚げ、その両端を執りて、その中を民に用ふ。それ斯に以て舜と為すか」と。

子曰く、「人は皆な(われ)は知ありと曰ふも、駆りて諸れを罟擭(こか)陥穽(かんせい)の中に納れて、これを辟くるを知ること莫きなり。人は皆な予は知ありと曰ふも、中庸を択びて、期月も守ること能はざるなり」と。

  孔子言ふ舜はまさに大知なりわれに知ありと人言へど舜には及ばず

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 北原白秋

(し)(らん)咲いていささか(あか)き石の(くま)目に見えて涼し夏さりにけり (歌集・雀の卵)

紫蘭はラン科の多年生草、初夏葉心より花茎を出し、紅紫色の数花をつける。小さい花で、アヤメやショウブのようにはでではないが、そのいくぶん黄色の勝ったみどりの葉とともに、いかにも初夏らしい感じの花だ。ふと気がつくとシランの紅紫色の花が咲いていた。それがさんさんと輝く五月の午前の日に反射して、いささかながら庭石のかげもうっすらと紅みがさしているような気がしたのだ。ここがこの歌のいちばんだいじなところだが、それを「目に見えて」と受け「涼し夏去りにけり」と「き」をはぶいて「涼し」と終止形にしてあっさりと詠嘆した。この「さりにけり」は去るのではなく、ここでは来るの意、万葉集でも去る、来る両方に使いわけている。ここでは夏が来た、夏になったことをいっている。

この歌は第三歌集『雀の卵』のうち「葛飾閑吟集」の部に出ている(略)第三歌集『雀の卵』に至って、白秋成長せりの感を深うする。(略)さまざまな苦悩をなめて、白秋はかえって成長した。天与の質をそこなうことなく、いっそうりっぱになって行った。この「紫蘭咲いて」の歌は、それをはっきり物語るものだ、白秋ならではのすぐれた諸特徴をあらわしながら、しかも歌におちつきが加わり、いかなる人にも愛せられる、清澄のしらべをなすに至った。

2025年6月15日(日)

朝、雨。やがて曇り、晴れらしい。しかも暑くなるようだ。

原田ひ香『その復讐、お預かりします』を読む。軽い読み物だが、心に残る。美菜代と成海慶介との復讐屋の仕事のあれこれ。ほとんど復讐はしないのだが、それが復讐につながる。最後の五話は、美菜代の復讐譚だが、成海の優しさを引き出して、ロマンチックな色合いもある。たのしい読書の時間であった。

  太陽が雲のむかうにぼんやりと浮かぶがごとく上りくるなり

  くもり空のつづく日ありてけふ明るく青空よろこぶ私がゐる

  雲の切れ間に青空、そして太陽が覗くときありうれしきごとし

  夏つばきの枝に小さな花つけて風にさゆらぐ中庭の木は

  愛らしき小さき花を咲かせたり沙羅の木の枝、釈迦が降り来

『中庸』第二章一 仲尼(孔子)曰く、「君子は中庸し、小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にして時に中すればなり。小人の中庸に反するは、小人にして忌憚(きたん)するなければなり」と。

子曰く、「中庸は其れ至れるかな。民(よ)くする(すくな)きこと久し」と。子曰く、「道の行なわれざるや、我れこれを知れり。賢者はこれに過ぎ、不肖者は及ばざるなり。人は飲食せざるもの莫きも、能く味を知るもの(すくな)きなり」と。

子曰く、「道は其れ行なはれざるかな」と。

中庸―鄭玄(古注)は「庸」を作用と解し「中和の働き」をいうとしたが、朱子(新注)は「中とは不偏不椅で過・不及のないこと、庸とは平常(平凡恒常)の意」とした。偏りのない平常で程のよい中正の徳をいう。

  君子は中庸の徳を守るが小人には分からず正道は其れ行なはざるか

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 柿本人麿

荒栲(あらたへ)(ふぢ)(え)の浦に鱸釣る泉郎(あま)とか見らむ旅行くわれを (同・二五二)

「荒栲の」は藤にかかる枕詞。藤江の浦は現在明石市大久保町のへん、昔はそこまで海が入りこんでいたのだろう。「泉郎」はもと部族の名、「海部」でも「海人」でもよいが、漁人、漁夫と解しておこたい。スズキは夏から初秋へかけての魚だし、前の歌の「夏草」と季節もあうし、共に近くの海の歌だから、これは同じ旅行の時の歌なのだろう。第四番目に置かれてある。ことばどおりに解すると、肱江の浦でスズキを釣っている漁夫と見るのであろうか、旅行く自分を、ということでこれもそっけないみたいだが、前の歌にくらべて深い旅情が感じられて、歌も一段とすぐれているように思われる。(略)第三者の立場から自分を見ているので、反省というほどではないにしても、他国の海をゆく自分をふりかえり、わびしい思いをするとともに、その漁人を親しいものと考える。おそらく声をかけて挨拶でもして過ぎたのだろうが、めずらしく心のこまやかな歌である。表に出して多くをいわず、余情に託したのがこの歌のよいところ、八首中いちばんおもむきが深い。

(いな)日野(いぬ)の行き過ぎがてに思へれば心恋しき可古(かこ)の島見ゆ (同・二五三)

(ともし)(び)の明石大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず (同・二五四)

天離(あまざかる)(ひな)の長路ゆ恋ひ来れば明石の門より倭島見ゆ (同・二五五)

(け)(ひ)の海の庭(よ)くあらし刈薦の乱れ出づ見ゆ海人(あま)の釣船 (同・二五六)

あとにつづく歌で、いずれもすぐれている。このうち「天離る夷」の歌は西から帰ってくることがわかる。しかし「飼飯の海の」歌をなぜこのあとへ置いてあるかがわからない。

2025年6月14日(土)

朝は曇りだが、やがて雨になるらしい。

  わづかづつ声あげて鳴くいかる鳥。黄色の嘴つつきて歩む

  黄色のくちばしをもつ鵤かな花の回りを鳴きつつ移る

  マンションの花の周囲(めぐり)に拠り来たるいかる黄色のくちばしを持ち

『中庸』第一章二 喜怒哀楽未だ発せざる、これを(ちゅう)と謂ふ。発して皆な節に(あた)る、これを和とふ。中なる者は天下の大本(たいほん)なり。和なる者は天下の(たつ)(どう)なり。中和を致して、天地(くらい)し、万物育す。

  中こそは宇宙の大本、和こそは達道、中和致せば天地万物安泰なり

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 柿本人麿

(たまも)(も)(か)(みぬ)(め)を過ぎて夏草の野島(ぬじま)が崎に船近づきぬ (万葉集巻三・二五〇)

「球藻刈る」は「敏馬」の、「夏草の」は「野島」の枕詞である(略)一首の中に二つも枕詞があり、しかも二つの地名が詠まれている。だから枕詞をはぶくと、敏馬を過ぎて野島の崎に船が近づいたというだけの味もそっけもない歌になる。だから鑑賞する場合は枕詞を心に思っている方がよいので、という必要もないほどに皆たれでもそう解しているのではあるまいか。(略)一首の意は、海藻を刈りとっている摂津の敏馬のへんの海を通り過ぎて、船はいよいよ夏草の生い茂っている淡路の野島の崎に近づいた、ということになる。簡単な内容の歌には相違ないが、それだけではない。二つの枕詞はかりそめにつかわれてあるのではなく、十分心得ているので、枕詞がもつことばの機能がじつにたくみに活用されてあるのに驚く。目立たないけれど、おのずから豊かな大きなしらべをなすに至った。もとより作者の主観が強くはたらいているからだが、それが結句へ来て「船近づきぬ」と客観的にいい据えた。ごく自然な結句だが感慨がこもっていて、読者もにわかに旅情を覚えて感動する。

人麿の「羇旅の歌八首」の第二首目の歌である。(略)