2024年4月3日(水)

朝から曇り、10時前から細かな雨が降りだす。このまま雨らしい。

  球状の玉をてのひらにもて遊ぶ宇宙を右に左に回す

  この玉と宇宙の相似をおもふとき駒飲む瓢箪あるかもしれず

  掌中の玉に遊ばれ一時間これもリハビリ玉をうごかす

『論語』雍也一八 孔子が言う「質朴さが装飾よりも強ければ野人だ。草食が質朴より強ければ文書係りである。装飾と質朴とがうまくとけあってこそ、はじめて君子だ。」

  文・質の彬々として整へば然るのち人に君子の道あり

『正徹物語』97 戸外の梅、晩の鐘 いずれも室町期に詠まれた題。句題の百首―古詩の五言句を題とした百首。これだけなのだが、これらが難題だということか。

  正徹の思考が見えず戸外の梅、晩の鐘、句題の百首

『伊勢物語』四十七段 どうにかして、心の底から、逢いたい女がいた。けれど女は、男のことを浮気者ときいていた。冷淡に女は詠んだ。
大幣(おほぬさ)の引く手あまたになりぬれば思へどえこそ頼まざりけり

そこで、男は返した。
・大幣と名にこそたてれ流れてもつひに寄る瀬はありといふものを

あなたこそが、寄る瀬だと歌われて、女はどう答えたのだろう。歌の返しはうまいけれど、私なら尻尾をふらないでしょう。

2024年4月2日(火)

朝から晴れ、ヒヨドリが鳴き、スズメが桜の木に拠り、春らしい日和である。

  一輪、二輪咲けるばかりの枝にきて枝を揺すれる子すずめ三羽

  さてもさても(つがひ)になるかひよどりのむくつけき二羽前後して飛ぶ

  人の世のあかるく開く朝の庭ひよどりがきて愛の宣言

『論語』雍也一七 孔子が言った。だれでも出てゆくのに戸口を通らなくてよいものはない。どうしてこの道を通るものがないのだろうか。

  戸口を通らずにこの道を往くものはなし必ず通るはずの戸口を

『正徹物語』96 読師の対面の座は、主位といい主催者など重んずべき人の坐る座である。文台の上は、主上の座。読師の後ろが一等下座である。読師講師の傍らにはその他の人々が、ぎっしり取り囲むように座る。

  歌会の座にもきまりがあるものを窮屈なれど従ふべしや

なんだかうるさいね。決まりなど誰がこしらえたのかなあ。

『伊勢物語』四十六段 男は、心のまっすぐな友をもっていた。片時も離れず、信頼しあっていたが、友は他国へ行くことになった。寂しい思いのまま別れた。月日を経て、友が男に文をよこした。

あれから、驚くほど月日がたってしまいました。私のことをあなたは忘れてしまったのではないかと、思い悩んでいます。世の中の人々は、会わなくなれば忘れてしまう。

そう書いてあったから、男は詠んだ。
・目(か)るとも思ほえなくに忘らるる時しなければ面影に立つ

  面影に立つものをこそ友といふかくうつくしき友情あらむ

2024年4月1日(月)

今日から四月だ。朝、雨。いったん止むも、また降るそうだ。そして午後三時には晴れる。

  気がつけば廊下の奥に立ってゐる醜き老婆わが母ならむ

  九十を超したる頃から惚けつづく醜き老媼いらんことする

  明かりなきキッチンに立つ母の影まるで妖異が佇むやうなり

『論語』雍也一六 孔子が言う。祝鮀(しゅくだ)(衛の祭祀官。雄弁で知られる)のような弁舌がなくて宋朝(宋の公子朝。衞の霊公の夫人南子の情人として美貌で有名)のような美貌があるだけなら、むつかしいことだ。今の時世を無事におくるのは。」

  弁舌なく美貌ばかりではむつかしき今の世無事に送らむとして

『正徹物語』94 続歌(つぎうた)―一定数の題を参加者が詠み、継いで一巻とする歌会―を詠む時に、短冊を取り忘れなどして、ある題が残ってしまう。すでに短冊を重ねる段になって、それを見つけると、その場の達人に投げつける。投げつけられたら、即座に詠む。ここでは、ちとも案ぜぬことである。了俊がいうには、頓阿が達者であることを二度まで目撃した。

為秀卿が出られた会で、一首誰も詠まぬ題があり、すでに短冊を重ねる時だったので為秀卿は「頓公に」と投げかけた。頓阿は、「ちとも案ぜず、やがて書き出せり」。その題は「梅散りて客来る」という題で、誰も詠まないのも道理であった。「さていかなる歌をか詠みつらん」と披講の際に聞いた。
・とはるるもいとど思ひの外なれや立枝の梅は散り過ぎにけり

また、ある会に為秀・頓阿・慶運・静弁・兼好など当時四天王と称された名人が集まった会に、頓阿・慶運らはみな六首。為秀はさらに多く、末席の初心の者は一首二首取った。さて頓阿は「所用があり、勝手ですが席を外す」と言って六首の題を小棚に入れた。罷り出ると、慶運が自分の六首の題に取り換えた。「はやその間に皆の出で来て書き出」すに「頓阿はどうして遅いのか」と言っているところへ頓阿が戻ってきた。「さきに置きし題を取りて、墨おしすりて書かんとて見れば、我が題にてなきなり」六首とも違う。別の題であった。「されどもさわぎたる体もなく」、「なんとおかしなことだ、誰がした悪戯だろう」と言い、墨を磨り、筆を染めて「さらさらと六首皆書きて出だせり。」披講の後に、慶運が「かしこくぞ仕りたりける。か様の時こそ、堪能の程はあらはれ候へ」が種明かしをすれば、頓阿「ひどいことをなされたものだ。いい年をして、人がこんなことをしたらせめて注意くらいしなければならぬ立場でしょうが」と答えた。その六首の中に「橋の霜」という題にて、こう詠んだ。
・山人の道の往来の跡もなし夜のまの霜の真間のつぎはし

  続歌のむつかしきこと解き明かす名人頓阿のやりやう見つつ

『正徹物語』が、妙に長かったので『伊勢物語』は休みにする。

2024年3月31日(日)

青天、外気は暖かいが、室内はそれほどでもない。午前中に厚木駅をぐるっと回って、北へ海西中を経て、踏切を越え、公園に入って、ルアンジュへ。けっこう歩く。

  こんな日は『左川ちか詩集』が相応しき「私の感情は踊りまはる」

  踊りまはるごとくに風の中を舞ふ左川ちかに扮し悲しみ追ひ出だす

  人の世を生き抜くための防御癖こしらへ歩む林の中へ

『論語』雍也一五 孔子が言う、「孟之反(魯の大夫)は功を誇らない。敗走してしんがりをつとめたが、いよいよ城門に入ろうとしたとき、その馬をむちでたたき『敢へて後れたる非ず、馬進まざるなり』」と言ったわけだ。孔子が好む大夫のエピソードだな。

  人の上に立つ者ならば言い回しも易しく誇らず受けとむるべし

『正徹物語』94 述懐の歌は、連歌とは違い、「何にても心におもふ事を詠むなり。」

「懐ひを述ぶる」というのだから、祝言であっても詠んでいい。定家は、
・たらちねのおよばず遠き跡過ぎて道をきはむる和歌の浦人 拾遺愚草1495
などと詠んだ。

  述懐は懐ひを述ぶることなれば祝言こそは詠むべかりけれ

『伊勢物語』四十五段 男がいた。その男へ、思いを告げたいむすめがいた。大事に育てられたむすめである。しかし思いを口にすることができず、病をえた。

いまわにきわに「こんなにも、思っていたのです」とようやく口にだした言葉を、親が聞いた。そのむすめの言葉を、親は泣く泣く男へ告げた。

男は、うろたえてやってきたが、むすめは死んだ。なすこともないまま、男は女の家で、喪に服して籠った。時は水無月のつごもり。暑いころである。宵に魂鎮めの管弦を奏で、夜は更けていった。わずかに涼しい風が吹く。蛍が高くとぶ。男は、臥したまま歌を二首詠んだ。
・行く螢雲の上まで往ぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ
・暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこともなくものぞ悲しき   
哀愁に満ちたこの二首の歌、いいですね。ちょっと感動的ではありなせんか。

2024年3月30日(土)

朝から晴れて、青天。本厚木へ買物に行った。小田急線に往復一駅、されどよく歩いた。午後もクリエイトを中心に歩く。

  あけぼの杉の天辺あたり陽はあたり燃ゆるがごとし朝のひかりに

  ひさびさに空が明かるく(ひら)けゆく弥生下旬の今日なればこそ

  老いたればしかめっ面をするらしいほんとは笑顔が笑顔にならぬ

『論語』一四 子游が武城(山東省費県南西)の宰(とりしまり)になった。孔子先生が「お前は、人物を得られただろうか。」というので答えた。「澹台滅明(子羽・孔子の弟子)という者がいます。歩くに近道を通らず、公務でないかぎりは、決して私の部屋にはやってきません。

  澹台滅明といふ素敵な名をもつ男ゐる公事にあらねばわが室にあらず

『正徹物語』93 内裏仙洞の会では、臣下の歌をすべて披講すると講師は退く。再び吟詠する段になり、おもむろに御製を懐中から取り出し、摂政などに下し、別の講師が参上し披講する。御製は七度披講する。臣下でも摂政などは三度披講。将軍の歌も近年は三度。

  御製を読むときは七度読みあげる摂政、将軍も三度披講す

『伊勢物語』四十四段 地方へ赴任する友のため「馬のはなむけ」を開いた。友のため、妻の侍女に盃をささせ、妻の着ていた装束を脱がせて、はなむけに贈った。そして、歌を詠んで装束の裳の腰紐に結びつけさせた。
・出でて行く君がためにとぬぎつれば我さへもなくなりぬべきかな

送別の歌としては、飄々としたものだから、じっくり吟じたりせず、腹の中で味わうがよい。

2024年3月29日(金)

雨に南風、南風が強い。こりゃたいへんだ。ベランダのサンダルが水浸しだ。

  抽斗に春のセーター動きだすざはざはさわぐ水色、黄色

  淡きブルー、イエローの春のセーターの主張をはじむわれこそ吾こそ

  せっかくの春の日の朝みづいろのセーター選び頭突っこむ

昨夜、堀田善衞『定家明月記私抄』の正編(正編かどうか表示はないので、仮に。続編には続編と表示してある)を読み終える。定家十九歳から四十八歳までの日記を読み、作者ならではの視点や同時代の権力者の日記などと比較しながら、これは面白い。貴族社会のとんでもなさ。定家の貧窮が明瞭だ。苦虫をつぶしたような定家の表情が見えてくる。続編を続けて読むつもりだが、これが国内ではなくバルセローナで書かれたというのは驚きの他ない。

定家の歌を抄録しておくので、今日は『論語』以下を省略する。
・行螢なれもやみにはもえまさる子ヲ思ふ涙あはれしるやは
・霧冱ゆるあしたの原のゆふがれに一花さける大和撫子 
・吉野山霞める空をけさ見れば年は一夜のへだてなりけり
・道絶ゆる山のかけはし雪消えて春のくるにも跡は見えけり
・なにとなく心ぞとまる山の端にことし見初むる三日月の影
・たまゆらの露も涕もとどまらず亡き人恋ふる屋戸のあきかぜ
・大空は梅の匂ひにかすみつゝくもりもはてぬ春の夜の月
・春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別るゝ横雲の空
・かすみたつかりばのをのれまちまちになごしなごしの春のあけぼの
・昨日までかげと頼みしさくら花ひとよの夢のはるのやま風