7月1日(水)今日から七月。早いものだ。もう半年たったのだ。

今日から七月。早いものだ。もう半年たったのだ。

  晴れてるが、雲が多い。

一九九五年に死にたるか高木彬光の復刊『帝国の死角』一部・二部買ふ

そろそろに眼鏡フレームを買ひ替へる相模大野の二店をめぐる

シンプルで少し縦幅狭きものを掛けてみるそれが似合うかどうか

『孟子』尽心章句上182 孟子曰く、「人は以て恥づること無かる可からず。恥づること無き之を恥づれば、恥無し」

孟子が言ふ「人には羞恥心が必要なり。無いことを自覚せば恥辱なし」

    *

 いかで のして に染むるの着む (二句神歌・四八二)

【現代語訳】どうにかして我は、播磨守に仕える童の手で、飾磨で染める褐の衣を着たいものだよ。

【評】出世と恋の成就を願う歌。「麿」は自称で、男女ともに用いる。「播磨守」は播磨国(現在の兵庫県南西部)の国司(受領)。播磨は大国であったから、国司も富裕で強大な威勢を持ったと考えられる。「飾磨」は現在の兵庫県姫路市飾磨区付近。褐染めが名物とされた。渇は藍で深く染めた青黒い色。

播磨なる飾磨に染むるあながちに人を恋しと思ふころかな(『詞花和歌集』恋・曽根好忠)

(播磨の飾磨で染めたかち染め、そのようにあながちに―やたらと―あの人を恋しいと思う頃だよ)

のように、「強ちに」の「かち」に「褐」を掛けたり、

いとせめて恋しき時は播磨なる飾磨に染むるかちよりぞ来る(『金葉和歌集』恋・よみ人知らず)

(どうにも恋しくてならない時は、播磨の飾磨で染める褐ではないが、徒歩ででもやって来るよ)

のように、「徒歩」に「褐」を掛けるなど、掛詞を伴って恋歌に用いられることが多い。

当該今様の詞章から想定される歌の主体「麿」と播磨守の童との関係については、主体を男、童を「女童」(少女)と見る説、主体を女、童を少年と見る説、主体を男、童を少年と見る説がある。また評釈は、主体である「麿」(少年)が播磨守に仕える童になりたいと願う歌と見るが、「童して」を「童になって」ととるのは無理があろう。

さて、歌の主体「麿」の性別を定めるための手がかりは「褐の衣」であると思われる。藍染の衣を着るのは男女ともに有り得ることであるが、「褐色」は、召具の褐衣の当色(皇族、貴族の外出に供奉する下級官人の装束として、その位階・職掌に相当する色)に類する。召具の褐色を使用したのは随身(貴族の警護にあたる武官)・馬副(馬脇の従者)・手振(行列の威儀を整える従者。手に物を持たずに供奉する)である。「褐の衣」から容易に連想される褐衣はこれら官人の所用であり、当該今様において、播磨守に仕える童の手で、飾磨で染める褐の衣を着たいと願うのは、すなわち、播磨守に従者として使えたいという願望であり、同じく播磨守に仕える童との恋の成就も共に含んでいると見られるのではないだろうか。「童」の語は男女ともに用いるので断定はできず、異性愛、同性愛両方の可能性を考えておきたい。

当該今様は、土器造の娘を「受領の北の方」と言わせたいと歌う今様(三七六)と同様、受領の威勢のもとで働くことを出世と考える庶民の夢を歌った一首と見られよう。直後に置かれた四八三番歌は山長の持ち物である鞭を恋しい人の腰に差させたい歌っている(四八三)。山長への憧れと恋の思いをあわせ持っているのと同様の趣が四八二番歌にも看取されるのである。四八三番歌は女が恋人の男の身の上を思う歌であり、四八二番歌は歌の主体たる男が自身の願望を歌うものであるが、詞章の中に出てくる山長の鞭や褐の衣といった小道具がその地位の象徴になっており、詞章から想定される歌の主体から見れば、その地位が憧れの対象であって、出世の目標とされている点では共通していよう。

「播磨守」は、名産の「飾磨に染むる褐」との関連からあげられているとともに、大国の受領として、豊かな財力を連想させる効果もあわせ持っているだろう。さらに、遊女や傀儡女を好み、今様を愛した藤原顕季や藤原家成といった人物が播磨守になっているところから、当該今様の背景には彼らの面影も垣間見られようか。

『平家物語』巻一「殿上闇討」には、藤原家成が播磨守だった時、娘の婿として藤原忠雅を華やかにもてなしたことにつき、人々が「播磨米は、木賊か椋の葉か、人の綺羅をみがくは」(播磨米は木賊か椋の葉か、人を一生懸命に着飾らせているよ〈木賊や椋の葉は木材・器物などをみがくのに用いる〉)と歌い囃したという逸話が見えるが、こうした歌も思い合わされる。

6月30日(日)

雲、ちょっと明る雲、雲……

  本を買ふも読めるかどうかわからずに柄谷行人回想録『私の謎』ひらく

  本屋へゆけば他の本も買ふたとへば丸谷才一『今は何時ですか?』

  岩波新書『中上健次 路地のビジョン』渡邊英理の一冊も買ふ

『孟子』尽心章句上181 孟子曰く、「之を行うて而も(あきら)かならず、習うて而も(つまび)らかならず、終身之に由りて、而も其の道を知らざる者、(おほ)きなり」

  実行してゐながら道理を知らず習熟していながら道を知らず

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

いざ寝なむ 夜も明け方になりにけり 鐘も打つ 宵より寝たるだにも飽かぬ心を や いかにせむ(二句神歌・四八一)

【現代語訳】さあ、寝よう。夜も明け方になってしまった。鐘も打っている。宵から寝ていてさえ満足できない気持ちなのに、ああ、こんな短い時間ではいったいどうしよう。

【評】愛欲に溺れ、逢瀬の短さを嘆く男の歌。二人の時間が瞬く間に過ぎるのを惜しみ、飽き足らぬ心を訴え嘆く恋の歌は多いが、「いざ寝なむ」という直截的な誘いに、短い言葉をたたみかける当該今様は、過ぎていく時間に対する焦りと、自分でも持て余すような欲情に悶える男の心を鮮やかにうつしとっている。

6月29日(土)妻の誕生日です。今年六十六歳。

まあ重たい曇です。

  蒸し暑き日なれば早くに冷房を入れれば外界の様子わからず

  ベランダの窓開けっぱなして湿気ある外気を入れてやすらぐわたし

  安らぎはクーラーの冷気あるいは外気どちらが涼しいか試すときあり

『孟子』尽心章句上180 孟子曰く、「万物皆我に備はる。身に反して誠なれば、楽しみ(これ)より大なるは(な)し。強恕(きやうじよ)して行ふ、仁を求むること焉より近きは莫し」

  万物の道理はみな自分の本性に備わっているはずなり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

御前より打ち上げ打ち下ろし越す波は つかさまさりの重波ぞ立つ (二句神歌・四七七) 

【現代語訳】神社の御前から寄せたり引いたりしながら岸を越える波は、官位昇進を知らせて次から次へと波立つことだよ。

【評】官位昇進をめぐる祝いの歌。「つかさまさり」は官位が昇進すること、「重波」は次々に打ち寄せる波。立身出世の願いを込めて歌う場合もあれば、昇進の結果を受け、それを祝って歌う場合もあっただろう。『枕草子』「内は五節のころこそ」の段には、当該今様またはその類歌と思われる一節が引かれている。五節(陰暦一一月の中の卯の日に天皇がその年の新穀を神々に供え、自身も食する新嘗祭の際に、五節舞姫による舞楽を中心として行われる公式行事)の酒宴の後、酔って、着物も乱れた殿上人たちの様子を描写する箇所である。

殿上人の直衣(なほし)ぬぎたれて、扇やなにやと拍子にして、「つかさまさりと重波ぞ立つ」といふ歌をうたひ、(つぼね)どもの前渡る……

『梁塵秘抄』には、

南宮(なんぐ)御前(おまへ)に朝日さし (ちご)の御前に夕日さし 松原如来の御前には つかさまさりの重波ぞ立つ(四一六)
(広田社の南宮のお社には朝日がさし、児のお社には夕日がさし、松原如来のお社には官位昇進の波が次から次へと打ち寄せるよ)

という一首があり、四七七番歌と同様、「つかさまさりの重波ぞ立つ」の句で結ばれる。四七七番歌は神社が特定されておらず、より汎用性のある歌と言えよう。

6月28日(金)

朝少し曇っていたが、雨、雨……

  朝空に映す水たまりを越へてゆく越へて越へゆくいづくの町へ

  水たまりを長靴はひて蹴とばせば飛沫とぶとぶたのしきろかも

  水たまりを避けて足弱のわれまた老い病むに遠くへはゆかず

『孟子』尽心章句上179 孟子曰く、「求むれば則ち之を(え)(す)つれば則ち之を失ふ。是れ求めて(う)るに益有るなり。我に在る者を求むればなり。之を求むるに道有り。之を(う)るに命有り。是れ求めて得るに益無きなり。(ほか)に在る者を求むればなり」

  仁義礼智などの天爵を求むれば相応の道のうち進むべきなり一本の道 

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

淀川の底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめく いとほしや
                        (二句神歌・四七五)

【現代語訳】淀川の水底深いところで鮎の子が、鵜という鳥に背中を食われきりきりと身もだえる。なんとかわいそうなことよ。

【評】鵜飼の歌(三五五・四四〇)の中でも、食われる鮎の子に焦点を当てた一首。

「淀川」は琵琶湖に源を発し、木津川・桂川を合流して大阪湾に注ぐ川。『古今和歌集』に、    淀川のよどむと人は見るらめど流れて深き心あるものを (恋四・よみ人しらず)
(「淀」という名を持つために、淀川は浅くて流れの滞る川だと人は見ているようだけれど、本当はよく流れて深い川です。それと同じように、私の心を薄情でためらってばかりとあの人は見ているようだけれど、実は涙があふれるほどの深い思いがあるのです)

とあり、水がよどんでいるように見えながら実は流れていて、水深の深い川とされている。当該今様も、そのような川の深さを意識した歌い方であり、暗い水底は、悲劇をより一層強調する背景ともなっていよう。

「きりきりめく」は身をよじってもだえ苦しむさまを表していると思われるが『梁塵秘抄』に先行する用例を見出せない。慶長八年(一六〇三)刊の『日葡辞書』には「Qiri-qin」に「敏捷に働いたり、物事をしたりするさま」とあり、現代語と同様の意味が記される。この「きりきりめく」は鮮烈な印象を持った言葉であり、一首の眼目は身もだえする鮎の動きの描写のあったと考えられる。伝統的な和歌において、漁の対象となる鮎は、川をすばやく移動する様子を「さばしる」「のぼる」などと表現されることがほとんどである。「さばしる鮎」は『万葉集』に見えた言葉で、清涼で生き生きとした感じをあたえるものの、平安時代以降は類型的な表現として使われ、その内容も断末魔の苦しみとは遠く隔たっている。漁を遠くから眺めるのではなく、ごく近距離から観察し、鵜の嘴で傷ついた鮎の姿を、擬態語を使って具体的に表現するところに今様の特徴がよく表れているが、当該今様ではさらに苦しんでいる鮎が「子」であることによって、哀れさが一層強調されている。

6月27日(土)

朝、雨が上がっている。台風8号は過ぎたようだが、7号がやってきて豪雨予定。

  懸命にはたらく蟻を観てをればわれまた懸命に生きねばならぬ

  死は遠きものとおもへど意外にも近くに在りて恐ろしきもの

  九相絵巻にをみなが死してなにもかにもなくなるまでを想ひみむとす

『孟子』尽心章句上178 孟子曰く、「命に非ざる(な)きなり。其の正を順受(じゆんじゆ)す。是の故に命を知る者は、巌牆(がんしよう)の下に立たず。其の道を尽して死する者は、(せい)(めい)なり。桎梏(しつこく)して死する者は、正命に非ざるなり」

  人生の吉凶禍福は天命なりよりてその正命を受くるべし

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

須磨の関和田の岬をかい(ま)うたる(くるま)(ぶね) 牛窓(うしまど)にかけて潮や引くらん (二句神歌・四七四)

【現代語訳】須磨の関、和田の岬をぐるりと回った車船、牛窓を目がけていくと、そのあたりでは潮が引いてしまうだろう。

【評】縁語仕立てで、目新しい車船とその航路を歌った一首。

「須磨の関」は、現在の神戸市須磨区の海岸にあった関。『枕草子』に「関は逢坂。須磨の関。鈴鹿の関」とあるが、平安時代前期には廃されれている。「和田の岬」は神戸市兵庫区にある岬。「和田」の「わ」に「輪」を掛けている。「輪」「廻ふ」「牛」「かく」「引く」は「車」の縁語。

「車船」は、嘉応元年(一一六九)に成立した藤原清輔著『和歌初学抄』の「物名」の「船」の項に「クルマブネ」とあり、嘉禎元年(一二三五)以降仁治三年(一二四一)以前に成立した順徳院著『八雲御抄』の「船」の項に「車 今様にも」とも見えることから、平安時代後期に「車船」という言葉が存在したことは確かであり、『八雲御抄』の記述からすると、当該今様が「車船」の例とされていた可能性が高い。しかし、その実態はよくわからず、「車船」の名から、船体の外にある車を回転させることによって船の推進を行ったのであろうと推察される程度である。時代はかなり下がるが、宝暦一一年(一七六一)夏に成った『和漢船用集』によると、「車船」とは、「左右に車を付け、水を搔きて舟をやる者也」とされている。船の左右に車輪を取り付けた車船は、外車の回転方向によって前進後退のどちらでも自由に行なえるという利点があったが、波のある時や吃水の変化の激しい貨物船、高速船などには向かないので、実用性は必ずしもよくなかった。

このように、一般に普及したとは思えない「車船」を当該今様が「和田の岬」と共に歌うのは、この岬の北側にある大輪田泊を平清盛が大々的に修理したことと関わるものと思われる。清盛は、隠居所として構えた福原の山荘に近い大輪田泊を日宋貿易の拠点として発展させようとして、大修築を計画、困難の末、ようやく人工島を築いて「経嶋」と名づけた。また、清盛は輪田浜に天台座主らを招いて度々千僧供養を行っているが、後白河院をはじめ、多くの公卿たちが結縁のために下向した。

「牛窓」は現在の岡山県瀬戸内市内(旧邑久郡牛窓)に大字名として残るが、ここには清盛の「宿屋」があったという。

このように清盛の行動と共に人々の耳目を集めていた話題の場所が、おそらく最新型の船とともに今様に歌われることはごく自然のことであったろう。当該今様は新開地の熱気を掬い取った、まさに最新流行を追う一首であったと言えよう。

6月26日(金)

雨、ちょっと曇り、また雨。

  さきがけのやうにほねなきみみずたち肉體さらし干乾びて死す

  みみずの輾転反側を凝っと観る斎藤茂吉したしくおもふ

  なにゆゑに実験のごとく身をさらし路上に干乾ぶ蚯蚓ありけり

『孟子』尽心章句上177 孟子曰く、「其の心を尽す者は、其の性を知るなり。其の性を知れば、則ち天を知る。其の心を(そん)し、其の性を養ふは、天に(つか)ふる所以なり。(えう)寿(じゆ)(たが)はず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり」

  孟子が曰ふ惻隠・羞悪・辞譲・是非を極むれば人の本性善なるを知る

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(あづま)より昨日(きのふ)来れば(め)も持たず この着たる紺の(かり)(あを)(むすめ)換へたべ (二句神歌・四三七)

【現代語訳】東国から昨日やって来たばかりなので、妻も持っていません。この着ている紺の狩襖と娘さんを交換してください。

【評】東人の言葉をそのまま繰り返して、その武骨ぶりを笑う辛辣な一首。

「狩襖」は「狩衣」に同じ。室町時代前期の有職故実書『名目抄』に「狩襖 カリアヲ随身等之を着る。舎人の牛飼所用又此事也 然而又狩衣と号す」とある。元来、野外の鷹狩などに際して用いた衣で、平安貴族や身分のある武士などの平服。多様な品物があふれる広大な都の市では、何でも交換できるに違いないと考えた東人が、自分の着ている普段着と、妻になる娘とを交換したいという非常識な希望を述べた趣であり、都人の皮肉なまなざしが感じられよう。

藤原明衡(九八九?~一〇六六)の記した『新猿楽記』には「東人の初京上り」という演目が見え、はじめて上京した田舎人の愚鈍な振る舞いを滑稽に演じたものと考えられるが、当該今様は、そうした寸劇の中で演技を伴って歌われた可能性もあろう。

室町時代の狂言おいても、都のすっぱ(詐欺師)が田舎者をだますという筋立てがしばしば見られ、田舎人が都人にからかわれるという構成の芸能が時代を越えて続いていくことが確認できる。ただし、狂言においては、最終的にすっぱのたくらみがばれて追い込まれることもあり、逆転による笑いも生まれている。当該今様は、こうした狂言に先行する素朴な喜劇のあり方を窺わせる点でも興味深い。

6月25日(木)

雨・あめ・雨・あめ

  カステラは南蛮渡りの菓子ならむ彼方の海を乗り越えて来し

  カステラを喰へばわづかに匂ひくるレモンの香するたのしきものよ

  わが前の皿に歪みて立つカステラふはふはの生地うまさうにして

『孟子』告子章句下176 孟子曰く、「(をし)へも亦(じゆつ)多し。(われ)之が教誨(けうくわい)(いさぎよ)しとせざる者も、是れ亦之を教誨するのみ」

  教育にも方法がある私が教へ諭すを拒絶するこれも反省、教育ならむ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

高砂の高かるべきは高からで など比良の山高々と高く見ゆらん (二句神歌・四六六)

【現代語訳】高砂はその名の通りなら高くあってしかるべきなのに、反対にどうして平という名を持つ比良の山が高く高くとても高く見えるのだろう。

【評】名実にそぐわないことに興じる言葉遊びの歌(一六)。「高」を七回繰り返して軽快なリズムを作り出している。

「高砂」は兵庫県高砂市。海沿いの地である(四四三)。「比良の山」は琵琶湖西岸沿いに連なる山地。高い峰が二か所あり、北の武奈ヶ岳は一二一四メートル、南の蓬莱山は一一七四メートル。滋賀県では最も高い山である。

『梁塵秘抄』には、「聖の好むもの 比良の山をこそ尋ぬなれ 弟子やりて……」(四二五)の一首もあり、比良の山が聖たちの道場として栄えていたらしいことが窺われる。音の繰り返しのおもしろさもさることながら、「高々高」は、そうした比良山を馳せる聖たちへの崇敬を含んだ強調表現とも見られよう。