雨だ。北からの風が強い。寒い雨だ。
テーブルの横に置いて、時間があれば開いていた『山村暮鳥詩集』(藤原定・大江満雄篇)一九六六年初版・一九九四年十一版、弥生書房・世界詩40だから、相当古い本だが、箱入りでしっかりしている。以前買ったものを、全編読んだのは今回がはじめてだ。暮鳥の詩というと「おおい雲よ」くらいしか知らなかったが、その短い詩のよさに驚いた。「また蜩のなく頃となつた/かな かな/かな かな/どこかに/いい国があるんだ」とか「まづしさを/よろこべ/よろこべ/冬のひなたの寒菊よ/ひとりぼつちの暮鳥よ、蠅よ」。どちらも「ある時」という題である。
大空を鵄が回遊するときはマンションに居付く鳩も失せたり
其処此処に糞を落してマンションの十階の屋上に住みつくらしき
鳩を好くことば聞こえず憎む声あまた聞きつつ肯くわれなり
『論語』季氏九 孔子曰く、「生まれながらにしてこれを知る者は上なり。学びてこれを知る者は次なり。困みてこれを学ぶは又其の次なり。困みて学ばざる、民斯れを下と為す。」
つまり人間には生まれつき差別があるということか。昔のことではあるが、こんな差別が許されるのだろうか。こんなふうに読んできて、『論語』は、どうも信じがたい。
孔子は生まれながらに差があると言ふべしされどそれが正しいか
『古事記歌謡』蓮田善明訳 八九 ソトホシノ皇女
後にまた、恋しさに堪えかねて、太子のあとを追うて行かれる時、
君が行き 日長くなりぬ 太子が島に行ってから 長い月日がたちました
山たづの 迎へを行かむ もうこの上はじっとして
待つには待たじ 帰りを待ってはいられない
この山たづというのは、今の造木である。
カルノ皇子が流されてから長くなりわれはもう帰りを待てず